AIについて語る仕事

某所にて、AIについて研究内容を報告する機会がありました。これでも使ってるんですAI。

どこで話している…とは今のところ申せませんし、資料の配布などは行っておりませんが、様々な形で「22世紀メディア概論」を語り続けています。

いつもそうだ。僕は遊んでいたら、その内容について聞きたがってくれる人がいる。僕は偏執的に遊ぶので、大量のアウトプットと概念論まで落とし込んだ説明をする。どうやら喜んでくれる人もいるらしい。僕はただ自分の自閉症語りをやっているだけなのに。…

WADAYA10周年

株式会社WADAYAがなければ、今の僕は存在しない。

もちろん、株式会社彌榮も存在しない。

そう言い切って過言ではない。

WADAYAが会社として創業するよりずっと前、和田社長が個人事業として「和田家」を行っていた時から、ぼくは横浜にある和田氏の自宅兼事務所に出入りしていた。

思い出す限り、あれは2009年ごろからではなかろうか。

ずっとずっと、和田圭介氏の丁稚として、様々な現場にアシスタントとして連れて行ってもらったり、何日も泊まり込んで映像を編集させてもらったり、夜を徹して酒を飲みつつ映画話に花を咲かせたり…和田社長と一緒に映像を作り、見た人に喜んでもらう体験を重ねるたびに「映像で生きる」というスタンスに憧れた。

2014年末、僕が会社員としての進路に悩んだ時、和田社長は言ってくれた。「僕も独立する。会社辞めて、一緒に何かしないか?」と。

「一緒に」とは言っても、友人と雇用被雇用の関係になるのは僕も彼も望んでおらず、僕は個人事業主として独立し、和田氏は株式会社WADAYAを立ち上げた。

時は2015年。小人数で映像を仕上げる。まだまだ分業化が当たり前だった時代に、WADAYAと僕は、二人で現場に行き、僕が編集して仕上げる、そんな日々が続いた。

今思い出すだけでも何十案件あるだろう…いや、百を超えている可能性もある。とにかく、嵐のような数を、和田氏の審美眼に適うクオリティで、高速に出す。手を抜いたところは一瞬で見抜かれる。説明できないところも見抜かれる。

僕はとにかくこの場所で鍛え上げられた。

和田氏は言った。「ここは時と精神の部屋みたいなものだ。ここを出た時、輔はスーパーサイヤ人みたいになってくれてたらいいな」と。

少しづつ、僕が自分の仕事を引き受け始めた時、基準は常に「WADAYA」だった。彼なら、WADAYAなら、どこまで仕上げてくるだろうか。どこまで追求してくるだろうか。

その指標を基準に僕は映像を作ってきた。

その結果…僕はスーパーサイヤ人になれたのかどうかはわからないけれど、少なくとも10年間、僕は映像制作でご飯を食べている。そして、サイヤ人ならぬ変態紳士になってしまった。こればっかりは和田氏も想像外だったんじゃないかな。

その後も、会社は違えど共に歩みつづけ、時にはWADAYAスタジオでラジオを収録させてもらったり、一緒の現場で仕事をしたり…今も「映像で生きる」術を共にさせてもらっている。

「輔のクオリティじゃまだまだだよ」「そんなものは作ってない」と言われることは承知の上で。

「変態紳士」というブランドの僕も、WADAYAが作ってくれたコンテンツの一つだよ、と。

10周年、おめでとう。

創業10周年を迎えました。 - <映像制作会社を横浜でお探しの方>動画の企画制作・撮影スタジオ|WADAYA STUDIO

創業10周年を迎えました。 – <映像制作会社を横浜でお探しの方>動画の企画制作・撮影スタジオ|WADAYA STUDIO

相変わらず、酔狂な人生。

今日は多面体の日。

午前には経営者としての顔、。決算含め、今後の企業方針を自ら決断を下す覚悟を求められる。

午後イチにはモノづくり屋の顔。PremiereやAfterEffectsと戯れて、自分が生み出したものでクライアントの喜んでくれる顔を想像する。これもまた、至福のひと時。

午後の後半には卒業生の制作受注相談。講師の顔。こういう話に声をかけてくれること自体が有難い。何かお役に立てることがあれば本当に幸いなのです。

夜はイベント、ハッピープレビューにて、コメンテーター/フロントに立つ人の顔。最前列に座って一番よく喋る係。僕はいったい何をやっているんだ。

本当にこれだ。僕はあの映画がどうだこの酒がどうだと「人生の愉快事」を深く語ることでお駄賃をいただいている。時にはその語りに応じた映像コンテンツを作ったりもしている。あまりに愉快だ。

ふと、朝の顔に戻る。

「愉快ごとを語る僕の世間における価値」は果たしてどれだけのものだったのか。

僕が人並みの事務作業をする。お金さんは逃げる。

僕が愉快な話をする。お金さんが寄ってくる。

なりたくてなった仕事じゃない。みんなが喜んでお駄賃を投げてくれることが、これしかなかったのだ。

さあ、僕はどうする。

もっと愉快になれるのか。愉快なものを作れるのか。

愉快になることで、お金さん…すなわち取引先に価値を提供できるのか。

これしかできない、これだけを求められてきた僕の、覚悟を問われる。

覚悟を持って、人前に立つ。

ガジェットレビュー始めました

新たな形態のお仕事始めました(毎月何か始めてる人)

ガジェットレビュー:なんでもレビューする人

どんなものでも喋ります。僕は芸人か。

この僕の変人喋りをお役に立てていただけるとは…EHOMEWEIさんありがとうございます。

というわけで他にも「この機材レビューしてくれ」「たすくなら違う視点でレビューするに違いない」みたいなお話あったらいつでもお受けしますお待ちしております。

「かみさんはピアニスト」

今日は、演奏会でした。

かみさんがステージひとつをまるごと担当して、ピアノを弾いた。

この一年間、ほぼそのために生きていたと言っても過言ではない。

食べて、寝て、手芸をして、また楽譜を開く日々。生活のすべてが「音楽」を向いていた。(後は手芸)

僕がかみさんと出会ったのは1995年のことだ。

その時すでに、彼女はピアニストだった。合唱の伴奏者として、大学では毎日8時間、鍵盤に向かっていたらしい。

付き合い始めの頃は、僕もその「熱」の真意をちゃんと理解していなかった。いや、理解しようとさえしていなかった気がする。

彼女の本当の「腕前」に僕が驚愕したのは、ずっと後。2013年のことだ。

大学時代の演奏を記録した古い音源を、後輩が偶然データで持っていて、それを送ってくれたのがきっかけだった。

1995年、和光市アゼリアホール。

曲は《そよぐ幻影》。

再生した瞬間、空気が変わった。

言葉にすると安っぽくなるが、「響き」が研ぎ澄まされていて、何かが鳴っているというより、**何かが“在る”**という感覚だった。

——こんな音を弾く人と、僕は一緒に暮らしていたのか。

目の前の妻が、そのときだけ少し遠く感じた。

病をきっかけに、彼女は10年以上、ピアノから遠ざかっていた。

でもその音を聴いたときに僕は、はっきり思った。

もう一度、この人にピアノを弾かせなきゃいけない。

たぶんその思いが、僕が独立を決めた一因になっている。

「家族を守る」とか、そんなドラマ的な理由じゃなくて、もっと勝手でわがままな衝動だ。

あの音がまた聴けるなら、それでいいじゃないか。そういう感覚。

小説家・山口瞳は言った。

「作家はちゃんと遊ばなきゃダメだ。読者はあなたが遊ぶために金を払ってくれるんだから。遊んで得たものを提供するのが、作家の仕事なんだよ」

もちろんここでいう「遊び」は、呑む打つ買うじゃない。

哲学書を読み、美術館で立ち尽くし、最高のウィスキーを舐めるようなことを言っている。あ、結局飲んでるか。

僕は作家なのか、なんなのか、よくわからない生き物だけれど、

映像や色や物語について語り、作り、それで日々のお駄賃をいただいて生きている。

自分の仕事を「芸事」と言っていいなら、それなりの覚悟と代償を持ってここまできたつもりだ。

ただ、どうしてもそこで——自己完結してはいけないと思っている。

誰かもう一人、「酔狂人」を世の中に生きさせなきゃいけない。

それはビジネスでは実現できないことだし、従業員にも要求できない。

強いて言うなら、それは「パトロン」だ。

——自分で芸事をしながら、他人の芸事も支える。おかしいだろう。正気の沙汰じゃない。

でも、それが僕の最後のプライドだ。

「文化に貢献する酔狂人(あえてそう言う)」を自由に生かしているという自負。

しかもその対象は、クラシック音楽という最も贅沢な文化に、少しでも触れている人。

その人に「どうぞ、ピアノをお弾きなさい」と言える贅沢。

これ以上に報われるお金の使い方があるだろうか。

僕はかみさんに、こう言っている。

「仕事なんてしなくていい。家事も一切かまわない。

毎日ピアノを弾いてなさい。手芸でもなんでも、自分の世界に没頭しなさい」

これは甘やかしではない。

僕たち二人がこの世界で何を成すかを、25年かけて検証して、導き出した最適解だ。

とはいえ——

かみさんは結局、仕事もしている。

それはつまり、

・僕をつまらない方向に進ませないよう、矯正すること。

・付き合ってはいけない人や案件を、直感ではなく、第三者視点で判断すること。

・そしてクライアントと喧嘩になりそうなときは、一緒に矢面に立ってもらうこと。

正直、同席してもらうだけで「たすくなら御せる」とタカをくくっていた相手が、静かにビビる。あれは痛快だ。

…こうして書いてみると、結構、仕事してもらってた。

でもそれは、「労働」の対価ではない。

もっと深いところで、人生の価値そのものになっていく。

母は言った。

「あなたを労働者にも社会人にも育てた覚えはありません!」

妻は言った。

「あなたが真人間になったところで、いったい誰が喜ぶんですか?」

これらは、駄目人間の言い訳として使うものではない。

むしろ、僕がこの社会でどんな形で貢献するかの、コンパスのようなものだ。

僕は、自分で稼いだお金を、自分の欲望には使っていない。

ピアニストを育てるために、芸事を支えるために、文化という名の火を絶やさぬために、使っている。

だから最後にこう言いたい。

「僕以上に、私利私欲なく文化に投資してると堂々と言える人だけ、僕に石を投げなさい」

「とりあえず全員お金を投げなさい」

仕事話の供養

今回のうれだん、デジハリ時代の最後をしっかり供養させていただきました。生々しい話はほとんど収録後にカットしちゃったけどね。

登録者1万人超えたらその次の顛末もいつか語ろう。

僕の人生はどうしてこう社会から排除され続けているのだろう。

組織の居心地が悪い人、いろんな理由でドロップアウトしそうな人、悲しい思いを噛み締めている人。みんなに救いの手を伸ばしたい。

いや、僕にとってこのルサンチマンは本当に「どんなにはみ出しものでも、捻くれてても、注意欠陥無能力者でも、みんなが幸せに、楽に生きられるように社会を変えてやる」という情念にまで昇華してしまったのです。

Live Under the Sky ’90

わかる人にはわかる、みたいな物言いは好きではないのだが。

実家の片付けが進んでいる中、僕が40年近く前に本棚に貼っていたシール。

音楽好きの方であればお分かりであろう。Live Under the Sky’90のステッカーです。

ミュージシャンはジャックデジョネット、ハービーハンコック、パットメセニー、デビッドサンボーン、ハイラムブロック、トムバーニー、オマーハキム、佐藤允彦、梅津和時、ウェインショーター、アルジャロウ、ジョーサンプル、スティーブガッド、フィリップセス…

えーと…今見るとなんて贅沢なラインナップなのだろう。これを一夜にして、高校生が富山の野外で聴いていたなんて夢のようなライブだったんだ…。

音楽は素晴らしいです。なんでこんなに素敵なものに溢れているのだろう。

、「HERBIE HANCOCK JACK DAVE HOLLAND DEJOHNETTE PAT METHENY DAVID SANBORN GROUP SELECT LIVE SPECIAL BAND ะินบ ahhver MASAHIKO SATOH RANDOOGA CONCEPT WAYNE SHORTER AwtaCkazanex tOs SPECIAL WORLD GUEST AIGxA MnLTIKO Tak.aysikcNuk.ata HOKURIKU tme NAGOYA OKyO KYUSHU OSAKA ToHoKu HONG KONG SELECT 開 LIVE SKY'90 90 UNDER HE OPEN TO THE 00」というテキストの画像のようです

すべてのリアクション:

120時間だけの親孝行

今日もめっちゃ長いから覚悟しろ。

僕のブログ史上最長だ。覚悟しろ。

そしてすみません、僕は書くことでしか感情を消化できないのです。

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〜「終わり良ければ全て許される」とは思ってないからね〜

母が亡くなりました。

死因は1月に発覚した、とある末期がんです。

入退院を繰り返していましたが、5月に入り急激に体調が悪化し、18日に息を引き取りました。

本人はともかく「ひっそりと消え去りたい」という希望にて、通夜も葬儀も行わず、このような後日連絡の形をとりました。

(故人の気持ちを尊重し、富山〈特に地元の町〉の方は若干外して投稿しています。万一地元の方がいらっしゃったら、そっとしておいてくださると幸いです…とはいえ、私が本件を放言することはある程度想定・許容してくれていた模様です)

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前文

僕は不孝者です。

18歳の時に家を出て、そこからほとんど実家に帰ることもなく、弟と妹の面倒も放ったらかしに、自分の酔狂のためだけに半生を過ごしてきました。

親の面倒も考えず、祭りやイベントごとなど、時々実家に顔を出しては母のご馳走をいただいてまた足早に去っていく…とんだろくでなし息子です。

さぞや寂しい思いをさせてしまったと。今さら後悔しても遅いのですが。

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1月某日

早稲田松竹で小津安二郎『東京物語』を観た翌日。

母から末期がんにかかっているという手紙が届く。

まさか「家族と絆」「親と子」「老いと死」をテーマにした作品を見た翌日に、自分の身に降りかかってくるとは。

「もって1年、ですが気にせず普段どおりの生活をしてください」と。

普段どおりになんていられるか、と思いつつも、母らしいなと思う。

とにかく人の迷惑になることが嫌い。それでも自分の意志は絶対に貫いてきた母。

母曰く、

「貴方は普段どおりに生活しろ」

「葬式はしない」

「墓も作らない」

「骨は海に撒け」

「延命治療もしない」

「入院もしないで楽しく生きる」

なんとわがままなことか。この言葉をその通りに受け止め、さまざまな人からの非難や叱責を一気に受け止めて半年間毎日母をサポートした父のすごさが浮き出るが、それはまた別の時に語ろう。

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4月2日

4月に帰省した時はまだしっかりしていた。

おいしい焼肉を食べ、ビールに口をつけ「楽しく生きる!」と笑っていた母。この時に食べた晩餐が、母の最後の手料理でした。

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5月7日

5月に入り、緊急入院の知らせが。

GW最終日に富山に戻り、痩せこけた姿を見る。

詳細は分かりませんが、がんとは別の感染症にて衰弱してしまった模様。

その時、兄弟一人ずつ病室に呼ばれて、いわゆる「最期の挨拶」を。言い残しておきたいことや約束など、10分程度の会話をしました。酸素吸入器越しのわずかな声でしたが、感謝を伝え、約束を行いました。

最期の挨拶を行い、これで万一の時に会えなくても「悔いはない」と言い聞かせていました。

翌日、感染症の治療とともに、元気が復活。

「お父さんの不満ぶちまけてたら元気出てきた!」とみるみる活力が戻り、一緒に笑顔で会話していました。

(とはいえ、もはや大腿骨へのがん転移もあり、ベッドから起きることは困難な状態でした)

なんだか、公式な挨拶をした後なので気恥ずかしさはあったけれど、楽しく会話して「これならもう少し元気な顔を見ることができるかも」と一旦帰京しました。

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5月14日

多少お仕事に余裕があるタイミングを見て、改めて面会のため富山に帰省。

衣類も一泊分しか持たず、まだ何回か東京〜富山を往復する機会はあるだろうと考えていた。

感染症は治ったものの、その間にも体は衰弱し、がん細胞は増幅する。

延命治療・抗がん剤を受けていない母は、想像以上に痩せ細っていた。

5月の緊急入院から、自宅に帰ることはできず、そのまま「看取り病棟」に移されていた。

※看取り病棟=患者の終末期に、尊厳ある日々を過ごすための病棟

もちろん地元に父も弟もいる。が、彼らには彼らで仕事や守る家族が別にある。

合間を縫って、毎日2時間だけ見舞いに来る父。2日に1回、仕事終わりに県外から見舞いに来る弟。

できる限り母を気遣っての生活、そして皆の中にある寂しさを堪えての日々。

その中で、一人経営者とはいえ、実質プータロー、無職と変わらない僕。

僕にできることは…多分、ただ一つ。

その日から「最期まで、母のそばに居続けよう」と。

(看取り病棟は、そのまま家族が寝泊まりできる環境も整っており、仕事もできるWi-Fiも繋がるという、僕にとっては非常にありがたい環境でした)

この日から、僕は5日間泊まり込みで、ずっと母のそばにおりました。

あ、もちろん仕事も進めながらね。ぶっちゃけめっちゃ快適な仕事環境でした。緩和ケア病棟すごい。ありがとうございます。

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5月15日

母と会話。

「ガリガリ君が食べたい」と。

既に食事をとらなくなって久しい母は、水分をガリガリ君だけで確保している。

口にスプーンを持っていって、3口ほど食べては眠る生活。

多少は会話が伝わる。笑顔も見える。

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5月16日

胸元で大きく呼吸するようになる。

睡眠なのか、目を瞑っているだけなのかが分からない状態が続く。

声が聞き取りづらくなるが、それでもニーズは「ガリガリ君」「口が乾いた」「姿勢を変えてほしい」の三択あたりなので、難しくはない。

眠りを邪魔しないように、それでも僕から話しかける。

弟や妹が生まれる前のこと。喫茶ジャスミンでずっとゲームしていたこと。お金がなくても図書館でいっぱい遊ぶ日々を過ごしたこと。20歳で僕を産んでくれた母は、それこそ20代の輝かしい日々を、僕と弟にすべて注ぎ込んでくれた。

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5月17日

何も食べていなければ、体力は極端に落ちる。

あくまで緩和ケア。栄養点滴を打つわけではなく、「安らかに、痛くないように最期を迎える」ことに特化した病棟。

体力の低下は見えつつも、眉間にシワを寄せるなど、痛みが出ていないかどうかだけ意識して、いわゆる「モルヒネ的な何か(医療分野分からず)」を投与して、痛みが出ないように、楽になるように導く。

呼吸は少しずつ浅く、そして意識は混濁しているように思う。

コミュニケーションは「痛い/返事がない」の二択に絞られる。

この日は、僕が大好きな「伏木曳山祭」が開催される日。

この祭りは、もともと母の生まれ育った地・伏木で行われているものだ。

母に手を引かれて——もとい、乳児で抱きかかえられている頃から、この祭りは母と共に見ていた。

毎年この祭りに参加している僕も、今年は参加を控えさせてもらった。急遽の不参加、伏木湊町の皆様にはご迷惑をおかけしました…。

伏木の町から2駅しか離れていない病院で、僕は母の枕元で、お祭りのYouTube中継を流して一緒に見ていた。

心なしか、母が笑った気がした。

「貴方は祭りが好きで本当にしょうがないねぇ。家にも帰ってこんで」と、愚痴を漏らしたように聞こえた。

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5月18日

僕は病室で起きて、真っ先に母の様子を見る。

明らかに、呼吸が弱くなっている。

そして何より、手足の温かさが薄れている。

主治医の先生も、明言はしないが「ギリギリのところ」とお話ししてくれる。

なんとなく、次の朝日は拝めないかも…という予感がする。

昼過ぎ、父が見舞いに来る。

父と母の二人の時間をつくるためにも、僕は一旦外に出る。

父と母が出会った高校の周り、母と一緒に行った高岡市美術館など、近くを散策して帰院。

夕暮れ。

手足が少しずつ冷たくなってくる。

当然、看護師の方も状況は理解している。「足はまだ温かい。辛くはなさそうだ」という言葉を聞きつつ、認めたくない現実を受け入れる覚悟をしながら、母にたくさん話しかける。

母はRolling Stones、ジュリーが好きだった。

VJやDJっぽいことをやって仕事にしてきた僕は、そっとプレイリストを作ってかけ始めた。

Jumpin’ Jack Flash

シーサイド・バウンド

花の首飾り

Brown Sugar

She’s a Rainbow

プレイリストの最後には、母が大好きだった曲「Angie」。

少し、嫌な予感がした。でも、この曲をかけないわけにはいかなかった。

//

僕たち頑張らなかった訳じゃないさ

アンジー、君は綺麗だよ、とっても

僕たちはこれからどこへ向かうって言うんだい?

生きるっていいことなんだろ?

でもさよならの時なんじゃないかな

僕たちはよくやったんだよ(抜粋)

//

17時40分ごろ。

5月の高岡。日没が近い。

Angieをかけながら、僕は母と会話を続けていた。

酸素吸入機を付け、目を瞑ったまま反応がない母に、僕がポツポツと語りかけていた。

そこまで美談に、そこまでカッコ良い終わらせ方、演出めいたことは言いたくないけど…

Angieが流れ終わった頃、

母は呻くようにひとつ、喉を鳴らした。

「あれ母さん、まだ飲み込める力あるじゃん」と僕は言った。

そして、母から呼吸音は聞こえなくなった。

主治医さんからチェーンストークス(終末期に呼吸が不安定/無呼吸になる時がある)という言葉も聞いていた僕は、少し様子を見た。

3分経っても、呼吸が戻る様子はない。

「表情筋がなく、人形のような顔」に見えた。

ああ、あの声が「その時」だったんだな。

と悟った。

これが延命処置、少しでも長く生きたいという母の願いがあるなら、すぐにナースコール、『ER』や『アンメット』のように「急患!」「オペ!」の展開になるのだろうけど。

僕はそうはしなかった。

ひょっとすると、僕は臨床的に不義理なことをしたのかもしれないけど、

僕はそのまま——

15分程度、母の(おそらく)亡骸とともに、二人の時間を過ごした。

きっと旅立っていると理解しながらも、その宣告が怖かったのかもしれない。

でも同時に、母のその瞬間を、僕一人が独占してしまった「負い目」がある。

毎日見舞いに来ていた、配偶者でもあり、母をとても愛していた父。

母に可愛がられ、地元に暮らし続けて家族をつくった弟妹。

彼ら彼女たちを差し置いて、僕一人が母の最期120時間、独占してしまった。

いや、独占じゃない。あくまでも、父や弟妹の代わりとして、僕がここにいるんだ。

じゃないと、僕は「最後の主役級、美味しいところだけ持っていくずるい長男」になってしまう。まあ、ずるい役どころばっかりやってるのは間違いないんだけどね。

5日間、120時間。僕は母のそばにいた。

これだけで、今までの親不孝が許されるとは全く思っていないし、

もっと親孝行すればよかったという浅はかな後悔も浮かぶ。

父や弟の「お前ずるいぞ」という言葉も聞こえる。

しょうがないがな、これがブラブラしてるフリー長男の仕事であり、特権やぞ。

安らかに旅立ちたい、痛くないように、楽なように過ごしたい。母の願いがそこにあるならば、決して間違ったことはしていない——と信じて。

僕は15分ほど、呆然としながら母に話しかけていた。

そんな18時30分。

覚悟を決めて、看護師さんを呼びに行きました。

その後は、定型通り。当直のお医者さんが来て、聴診器診断と網膜を確認して、その時を告げた。

日は既に落ちている。

次の朝日は、母がいない世界に昇る。

お医者さんも戻り、家族が到着するまでの間、僕はひたすらJumpin’ Jack FlashとBrown Sugarを流して踊っていた。

僕に泣く権利はない。不孝者が最期、これだけ側にいておいて。悲しむのは父と弟妹で充分だ。

変態紳士たるもの、母の旅立ちを踊って見送るのが礼儀だ。

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まとめ

その後の話はもういいでしょう。長くなりすぎました。

「親の死に目に会えないと後悔する」と聞きます。

僕から母に関して言いましょう。

死に目に会えない的後悔、まっっっっったく、無い!

もうこれでもかというほど、最期をそばで過ごしました。

そしていわゆる「ザ・その瞬間」を僕は母の顔を見ながら送ることができたのです。心電図も何もないけどね。ただ一人だけ。僕だけが独占して。

いやもちろん、もっともっと側にいたかったのは本音ではあるけれど、それを言い出すと「こうなってから来るんじゃなくてな、毎年な、ちゃんと挨拶するとかな(略)」と説教されます。

「あのとき感謝を伝えられなくて後悔」とも聞きます。

感謝伝えられない後悔、まっっっっったく、無い!

(後から出てくるかもしれんけど)

5日間、途中からはほぼ一方的ですが、僕の知る限りの思い出をたくさん話させていただきました。正直途中から「えーと…あとなんかあったっけ…」みたいな状態になりました。なかなかこんな看取りは少ないでしょう。感謝も懺悔もいっぱいしました。むしろ懺悔ばかりでした。多分「お前はいいから弟と妹の話も聞かせろ」と言ってることでしょう。

後悔してるかどうかなんて、言い始めるとキリがありません。

でも、母は僕にその後悔を少なくするプレゼントを沢山くれたのです。

懺悔をする時間、親不孝を少しでも返すことのできる時間、共に過ごす時間、感情の整理ができる時間……

最期まで僕は、母からいろんなものをもらいっぱなしでした。50にもなって。

「本当にお前は調子がいい。最期の最期、一番美味しいところだけ持っていってドヤ顔して、孝行した気になっている」

——ごめん、お父さんお母さん。僕をこんなお調子者に育てたのはあなた方です。(加えてかみさんです)

これを「強運」と言って良いならば、僕はとてつもない「強運」を持って生きています。むしろ運と縁だけで生き抜いています。

この「運」は、母だけじゃない。祖父母、叔父叔母、たくさんの「僕を愛してくださる方々」が「いまだに手がかかるマルコメ坊主=僕」の面倒を見てくれているからだと信じています。

甘えていていいわけじゃない。

これで許されるわけじゃない。

まだまだ頑張っていきます。

生きててすみません生まれてすみません。

映像作家で映像講師

モーションデザインテレビ屋さん

お調子者の祭り好き

放蕩息子でろくでなし

神出鬼没の長男坊主

山本輔でございます。

ありがとう。お母さん。

貴方からこんな変なのが生まれてきてしまいました。

僕の文章をずっと応援してくれた母さん。

一冊でも、母が生きている間に商業出版出来たこと。ほんの僅かでも、孝行になったのかな。

ブログもFBもインスタも、全部チェックして全てに「いいね」を押してくれていた母さん。

最後の「いいね」は5月6日。

このFB記事に、「山本 恵子」から「いいね」が付くことはないと分かっているけれど。

本当にありがとう。

伏木曳山祭のWebサイトがリニューアルされました。

https://kenkayama.jp

実は2012年-今年まで、僕が作ったWebサイトが公式サイトとして、僕が運用管理していました。

2009年、僕はデジタルハリウッドのWebデザイナー専攻の授業を6ヶ月間受講しました。その時の卒業制作にこの「けんかやまサイト」を個人サイトとして作り、それが縁で湊町と繋がり、僕のサイトを公式に採用していただいて今日に至る、という経緯がありました。

とはいえ2009年作成のサイト。スマホ対応もできてなかったですし、二時代前のCMSも活用してないサイト状況、流石に「いわゆる老朽化」が激しく…かといって僕自身もWebの専門家でもなく…

というわけで、今年無事引き継いでいただいて、新たに素晴らしいサイトに生まれ変わって頂きました。本当にありがとうございます。

僕もドメインの移行とかわからないことだらけでしたが、これをもって無事kenkayama.jpを、僕から大事にしてくださる方の元に渡せたこと、嬉しく思います。

まだまだ、祭りを盛り上げていきます!あと2日!

ウィンドチャイム、東京タワー、伏見稲荷大社、、「け ខ្ 伏 伏 天安! 奴 木 木 神 社 中 春 季 山 山例 例 aB 祭 大 山 伏木曳山 サポーター制度 ござ城ご協力の お願い Szrgl പ.ள」というテキストの画像のようです