坂本龍一 逝去

大人になる前の僕が「生き方」として憧れた方々。

筒井康隆、米長邦雄、三島由紀夫、村上龍、(架空も入れたら)ブラックジャック、(悪魔も入れたら)デ略…。

アッサジ(写楽呆介)は憧れてない。ただ似てるだけだ。

そして、坂本龍一。

偏屈で、頑固で、社会的常識に囚われないで(もしくは意識的に、愉快犯的に反抗して)、芸事を紡ぐ大人の姿に憧れて憧れて生きてきた(余談だが若い頃に藤沢秀行の存在など知る機会がなくて良かった。本当に良かった)。

幼少期には父のステレオでYMOを聴いていた。

個人として意識した初めは、中学生の頃「音楽図鑑」を音楽鑑賞の授業で聞いた時だった。

その帰りに実家近くのショッピングセンター「サンエール」で3300円のCDを購入した。

部屋にあるコンポで何度も聞いた。レンタルダビングした「メディアバーンライブ」はテープが擦り切れるまで聴き続けた。

でも、僕にとっては「音楽の人」というより「生き方の人」だった。

一番強烈に覚えているのは「SELDOM-ILLEGAL」というエッセイ集を読んだ時だ。

中学生ながらに憤慨した。

大嫌いになった。

なんて生意気なやつなんだ、と。

こんな不遜な大人がいていいのかと。

そう思いながら最後まで読んだ。

こんな図々しく好き放題言いたいことを言って、ピアノを爪弾いてかっこいい写真を撮って、NYのスタジオにこもって、現実世界から遊離して哲学とか美術の会話を仲間とし続ける生き方をしている大人がいていいのかと。大人はスーツを着て山手線に揺られて残業をしなければならない存在じゃなかったのかと。

それを「頭がベラージュ状態なんだ。それじゃあまた」と煙に巻くような発言だけで本を出版していいのかと。大人の、社会的責任はどうなんだと。中学生ながらに思った。

こうなりたいと思った。

世界的著名人の「僕はあんまり売れたくなかったんだ。匿名性が好きでね」なんて発言に、承認欲求が強い僕は悔しくも憧れた。

中学三年になると「坂本龍一になりたい」と思って戦場のメリークリスマスを練習した。DearLizも黄土高原も練習した。弾けないけど。洒脱で偏屈な物言いも学んだ(大いに村上龍の影響もある)。

人生における「知の探究」の根にもなっている。

TibetanDanceを聴いては、父の書斎から中沢新一「チベットのモーツアルト」を読み耽った。

ピーターバラカンからラジオの世界を知った。

Ballet Mecaniqueからフェルナンレジェを経由しマンレイを知った。

音楽に対するアプローチ書籍を読んでは、(音楽的才能がない僕は)哲学的アプローチに置き換えてジルドゥルーズやロランバルトにたどり着いた。

社会問題に取り組むようになってからは…あまり聴いてこなかった、のだけどね。

それはアプローチというよりも「自分が大人になって忙しくなりすぎた」からなのだけれども。

それゆえにenergy flowやBTTBにはあまり思い入れがない。

一番最後に聴き耽ったのは、デビットシルビアンとの「Forbidden Colors」だったと記憶している。

僕にとっては、いまだに自分自身がアップデートできていない憧れの煌びやかな社会「80年代」の枠組みに存在する「文化人」の第一人者、なのだ。

さすがに僕も、不惑をとうに超え「天命を知る」年齢になってきた。

憧れた大人たち、指針になった大人たちが少しづつ舞台から退場している。

それを悲しんではいられない。

与えてくれた影響をなるべく大事に、宝物として扱っていきたい。

(決して後世に伝えたい、などとは言わない。僕の手垢のついたものなど残してはならない)

お会いすることはありませんでしたが、与えてくれた影響は多大でした。

合掌。

ぼくは 地図帳広げて 音楽

発表会@母

あまり父のことばかり書くと母が拗ねるから母についても語る。

嘘だ。両親のことを褒めると自分が「良い人」に見えるからだ。アクセス稼ぎだ。しかしFBでアクセスを稼いでもなんの利益もない。すなわちこれも嘘だ。露悪的だ。そして恥じらいだ。エイプリルフールだ。すなわちこの世は何が本当か、何が真実かなんてどうでもいいのだ。

少なくとも前の記事で「お父様素晴らしい」と賛辞をいただいたこと自体はとても嬉しく、息子としても嬉しい。皆様ありがとう。

が、同時に「父だけが凄いわけではない」と言わなければバランスが取れない。そんな父を支えてきた母はなお凄いと言わなければならない。

母本人は父を支える内助の功として、その姿を黙して語らぬが、父を支えていただけではない。

箏楽家として活動をしている。

同時に、箏の先生として留学生に向けて日本文化発信の一端を担っている。

このことは、誰にも話していなかったんじゃないかな。

それもそのはず、実は母が箏をプロレベルで演奏していると言うのを知ったのは他ならぬ(自分が)40を超えたあたりで…。母が練習してる姿なんて全く見たことがなかったのだ。

ほんのわずかに、僕が3歳になる頃までは、少し演奏する母の姿を見たことはある。僕は3歳の頃、箏曲「ロバサン」を母と一緒に演奏した思い出は残っているのだけれども。

ただの幼少期の思い出。ただの一日。それ以降二十年近く、母と箏の接点は何も無かった。日々、料理と洗濯、僕ら兄弟と父の世話をし続ける母だった。

しかし、妹も大人になり、手が離れたからか、いつしか母は再度、箏に向き合っていたようだ。

もちろん僕は既に社会人になり結婚もして、実家にほとんど帰らない不孝息子だったが故に、その練習姿を見たことはほとんどない。

不覚ながら、演奏活動をしていることさえも知らなかった。

確かに、自宅に箏は存在していた。ちゃんと手入れもされていた。そして職人の娘らしく、日々のルーティーンや練習をしっかり行える性格だとも知っていた。

純粋に驚き。「お母さんそんな上手かったんだ」と…。

それも一つ一つ教えてくれたのは父だった。

「お母さん頑張っているんだぞ」と。

まあ、父はあの通り僕と性格が瓜二つなため「こんなことやってる褒めて褒めて」と猛烈アピールが高じて周囲の人たちの頑張りも伝播してくるため、母の頑張りについても僕にこっそり伝えてくれていた。

端的に言おう。両親ともに凄い。

僕は…そりゃ生きるの大変である。生きててごめんなさいである。

ほんと地元あまり帰らない親不孝者でごめん。

この流れでは弟と妹についても語らねばならぬが、うぬらは現役なのだから自分たちで自己アピールしなさい。その筋でそれぞれ頑張っているのだから。Twitterはちゃんと見ているぞ。フォローはしてないが。

碌でなし人生はこの僕に任せておきなさい。

卒業式@父

一つ、人生の中でも痛恨の失敗がある。

お前いつも失敗ばかりだろうと言うな。

大学4年時、僕は卒業式に祖父を招く予定でいた。

祖父は僕の母校になんらか(よく分からないけど)憧憬があるようで、父も受験していたし、僕はたまたまこの大学を入学することになった。

祖父はもちろんのこと、両親も皆喜んでくれて、祖父はその日のために体調も整えて用意をしてくれていた。

で、蓋を開けたら…留年してました。

僕としても青天の霹靂。フランス語が不可になり、わずか二単位たらずの留年。

そりゃもうがっかりされましたよ。ええ。

とりあえず僕は翌年卒業したものの、流石に祖父の体力事情も変わっていて…。

その後、祖父はもう他界してしまって、この願いは叶わないものとなりました。

で、話は変わって。

それから25年、4半世紀の時を超えて。

いいか、話がややこしいから落ち着いて聞け。

ポルナレフのようなことを言うからな。

その祖父の息子、すなわち僕の父が、僕と同じ早稲田大学を本日卒業して、僕が保護者として父の卒業式に参加しました。

御年71歳。いったい何をやっているのだ。

66歳で何を思い立ったか早稲田に入学し、6年かけて卒業しました。

データサイエンス、教育工学…好奇心赴くままに学び続けておりました。

僕は僕で父が大学4年の時に生まれており、父の大学卒業式に参加するのはこれで2回目。49年越しで2回経験しております。

いやはや、僕は本当に追いつけない。この好奇心とバイタリティ。まだまだ僕も頑張らないといけない。

いや、もう、なんというか、子供がいない僕が保護者として卒業式に参加するなんて。

しかも僕の後輩が父とか、全く意味が分からない。

休憩所に並んでたら、どう見ても卒業生の父と祖父にしか見えなかったぞ。

父を見ていて思います。大学なんて、学問なんて、

就職のためだったり、お金のためだったり、メリットのためにやるものじゃないのです。

本当に父はただ純粋に好奇心のためだけに、データサイエンスと教育工学を学んでおりました。

仕事に活かす…というよりはそろそろ引退されなさい。僕が「疲れた」と言えないではないか。

ハロワ営業

独立初年度、僕は「ハロワ営業」というものをやっていた時がある。

まあ職業紹介所からすると噴飯物かもしれないけれど、生きるためだ許してくれい。

まずハローワークに行く。

映像関係のプロダクションを探す。できれば小さいところがいい。

最初の面接から社長レベル(決済者)が出てきてくれることが必要だ。

で、面接に行ったら、まず一言目「僕、就職する気ないんです」からスタートし、

自分の実績、技術を説明して「外注として使ったら社員にするより得ですよ。一緒に仕事しませんか」と持ちかけ、そのまま取引先になってもらう、という技です。

向こうには「必要な時だけ仕事を振れる」から不必要なコストはかからない。メリットしかない。僕も取引先が増える。メリットしかない。100社くらい社長に顔覚えてもらえれば、月1本〜2本くらいは仕事が来る。

だって紹介所って求人してるところが札を出してるわけでしょ。仕事があって人が足りないわけでしょ。営業先の宝庫じゃないか。スキルを売る個人事業主としては最強の営業先リストじゃないか。しかもメールアポとか全部すっ飛ばして最初から面接。使わない手はない。

当然、会社のマインドに合う「社員」を求めているところもあるわけですから、打率としては5割も行けばいいところ。

とはいえ、どの社長にも「面白いやつだな」と顔を覚えられていることには成功している。

意外と僕にはこういう図太さがある。多分自営の親譲りだろう。

仕事に困ることがあれば、またこういう仕掛けを思いつくであろう自分を(ちょっとだけ)信頼しているところがある。

真正面が渋滞してれば、脇道を選べばいいじゃない。

生きていくことはできるはずです。

確定申告

終わりました。終わりましたというか

レシートの処理>卒業生にお駄賃払ってやってもらう。

会計ソフトへのアップロード>卒業生にお駄賃払ってやってもらう

各種書類>税理士の先生に全部おんぶにだっこ。O先生ありがとうございます。

という、結論から言うと「僕何にもやってない」というあまりにも碌でもない駄目社会人っぷりを発揮して生きております。社会人としての責務放棄。すみません本当に。でもそれゆえに…自分に求められた芸(なのか制作なのか演出なのか)だけは務めを果たしていこうと思って生きております。ええ本当に生きててすみません生まれてすみません。

昨年対比ではなんとかちょっとだけプラス…。そして、8年間、なんとか生きてこれた。

ほんと、数値だけなんだけど、数値だけの問題なんだけど…頑張ってきたなぁ、と改めて感じるのです。

や、自分で自分のこと頑張ったなんていうのは趣味じゃないんだけどね。頑張るかどうかなんて他者にはどうでもいいことなのです。頑張らんと人並みになれない、人の役に立たんから仕方なく頑張ってるだけなのです。

決算書類を見ながら、今年やった仕事、依頼されたこと、喜んでもらえたことをふっと振り返って…。

同時に、自分のデモリールなんかも見ながらちょっと日本酒を空けたりすると…。

ちょっと涙が出てくるんですよね。

この仕事してて、誰かに喜んでもらえたのかな。僕はこの社会でちょっとだけ役に立ってるのかな。

僕の売り上げの一部を税金として、信号機の一つぐらい建てられたのかな。

あんな依頼があった。こんな相談があった。

僕は僕でワタワタしながら「僕にきた依頼はなんとかしなきゃ」とばたついただけなんだけど…。人並みにできることと言えば映像を編集して渡すくらいのこと。これで税金を作ることができたり、みんなに配るお駄賃を作ることができたのならば、僕の去年は役に立ったのかもしれない。僕机の前にいてPremiere触ってただけなんだけど。

そんなにいい人ぶるつもりはない。金は稼ぐし碌でもないこともする。

経済人じゃないどころか、金勘定はさっぱり分からない。

それでもなお、取引の間に立って、僕が何か映像を作ることでいろんな人が喜んでくれてお金が流れるのならば、僕はちょっとだけ社会の一員になれたのかもしれないな、と。

(ずっとずっと言い続けてますが、僕はまだ「社会人失格」のレッテルを心の底で剥がせないまま、コンプレックスを抱いたまま生きています。)

さあ、新年度、また僕にできることでお役に立っていきましょうか。何ができるか知らんけど!

ベースだって弾く!怪談師だってやる!役者もナレーションもYouTubeもなんだってやってやる。

自分が自分に全く期待してないんだから、誰かの期待くらい応えてないと生きてる実感がありません。

半年ぶりのVJ

半年ぶりのVJ稼業@神田ISOLDE。

みんなが想像するVJはきっと、渋谷や東京DOMEのような空間にサイネージのように浮かび上がる豪奢なインスタレーションなのでしょう。しかし僕は、いわゆるライブハウス、通称「小さいハコ」で、プロジェクターで映像を流したり、モニター10台で同期を取るような、そういう空間で継続的にVJさせていただいております。いつも御声がけくれるイベントプロデューサー、DJ AKKYありがとうね。

イベント規模が大きいから凄い、小さいから凄くない…いやそりゃ僕は全然すごくない野良VJなのだけれどもね。それでもこの「熱気溢れる空間」「数十人のお客さんと一体化する空気」「DJもVJもステージではなく、フロアに居ながらパーティする」というこの規模感がとても好きだし、楽しいし、場数をたくさん経験していることは、何よりの財産になっています。かれこれ結局この6年で、都内ライブハウス10箇所くらいで50回近く本番を経験してるんじゃないだろうか。

自前の機材だからこそ起きるトラブルや事前の確認、いろんな経験が配信や撮影の仕事にまたフィードバックしています。何より、ここで出会った方々がまた素敵で…僕の世界を彩ってくれています。(顧客が増えた、なんて野暮なことは言いません。そりゃいろいろ仕事のつながりも増えたけどさ。それが目的じゃないの)

フロアに居ながらVJする醍醐味の一つ…それは「いい演出でフロアが盛り上がったら、お客様からドリンクを一杯プレゼントされる」という仕事にあるまじきスタイル。そして盃をプレゼントされたからには飲み干すのが昭和の礼儀。今日もビール5杯テキーラ1杯ハイボール2杯プレゼントいただきました。機材の側に酒があるのは危険なのでパッパカ飲みます(それもそれで危険です)

それで4時間映像ぶん回して、これで仕事と言っていいのだろうか。

確かに「お代」は頂いた。

ゆえに、これは「仕事」かもしれない。

でも、僕はお代を目的にVJしてるつもりもなく、お客さんがたくさん入ったら「お座敷代」がポチ袋で渡されるものだと思っている。

貰わなくっても、お声がかかればいくらでもやります。

花※を頂ければ、もちろんさらに頑張ります。

そしてその花を二次会でパッと使って手元から無くす。

この人生が最高なんじゃないか。

(…今日は二次会もご馳走になっちゃったけどね。ありがとう)

さあ、楽しい人生、まだまだ続きます。

※花-うちの地元での「お座敷代」やお祭りへの「ご祝儀」の言い回し。

「花を頂く」「花を打つ」と云った言い方をします。

この言い回しが、僕は何気に気に入ってて…自分の仕事の売上も「花」という言い方をしています。

継続案件が来ると弊社では「まーたまた出ました花の御礼!目録ひとつ!」と叫びます。僕が。

この感覚、富山県西部の人間は皆わかるものと思います。

格好良く生きていきたいな

僕らが格好良い大人に憧れたように

自分も格好良い大人になれたらいいな、と思っていた。

気がついて見れば、なんのことはない。ただの中年。それも無職の子供部屋おじさんだ。

夢だってあまり無い。祭りが曳けたので僕はもう充分だ。

こんな僕が格好良い大人であるはずがない。

同時に、他者に対し「格好良く思われよう」と思うこと自体が見栄え良くない。

自分に対しては格好良くありたいけどね。

最近、若い方、それも10代の方々20代の方々から相談を受ける機会が多い。自分が親世代になってきたからか、親子同伴で同席させていただくことも多い。

どうにも「夢を叶えている大人」「楽しく格好良く生きている大人」の枠内で語られることが少し増えてきている、と思う。上記の通り、僕は僕でヒーコラ借金返して社会から爪弾きにされて泣く泣くこの生き場所死に場所についただけなのにね。

だからこそ若い方々には「これは一事例であり参考にも何もならない生き方だ」とは伝えている。

「生まれてごめんなさい生きててごめんなさい」は本当に心からのセリフだ。両親にはありがとう、だけどね。

そんな僕に、何を聞くことがあると言うのか。

そこまで、社会は混迷しているのだろうな、と思う。

未来を見据えようにも暗雲漂い、マイルストーンとなる先輩もいない。親世代さえもおろおろする。

そこでは「社会から爪弾きにされた」けれども逞しく生きてる僕の処世術はなんらかヒントがあるのかもしれない。

役に立てるものなら大いに役に立てていただきたい。

喋れないことは何もない。僕に何が起きたかも全部喋る。

その上で「大人になるのってやだな」と思われたら、うん、ごめん。僕の責任です。

同時に「夢を叶えた人」と見られることも多くなってきたが、

正直全くそんなことはない。

楽しく生きていられる、好きなことを言う、言いたくないことを言わない、やりたいことをやる、やりたくないことをやらない、祭りに参加している、これらの点だけで言えば、夢は叶ってるけどね。

何かを成し遂げようとはしない。目標達成志向、成し遂げる起業家気質的に出てくる臭みが嫌いなのだ。僕の信念、ポリシーを日々曲げずに、1日1日、死ぬまで頑なに言いたいことだけ言って生きるのみ、それだけでいいのです。

ときに、映像作家として名をなそうとは思わないのか、と聞かれたことがあった。

その時は、かみさんが間髪入れずにこう言った。

「あなたは別に映像作家として有名でもないし無名駆け出しもいいところです。でもそれで良いのです。貴方は『街のビデオ屋さん』。トップになろうとせず、目の前のお客さんを大事にすることだけ心がけてください。著名人の妻になりたいわけではないのです。」と。

僕も賛成だ。後は、みんなが僕を好きなところに連れて行ってくれると信じている。そのみんなの期待に便乗しながら、好きに生きていきます。

ちょっと酔っ払ってるかな。まあ、こんな日もあるよね。

配信現場

先日は早朝から配信現場でカメラマンのお仕事。

同軸を100m引き回し、手元3台遠方1台。固定画とは言えやはり演者さんの立ち位置で微妙に構図を合わせたくなるのは致し方なし。ずっと昔に教わった「三本指握りパン棒コントロール」を久々に実践で使いました。昔はこういう細かい実践ネタ、教えてくれる先輩が大勢いたんだな、と改めて実感。僕に何ができるかわからないけど、教わったもので役に立つものは伝えておきたいな、と。

そして先輩だけじゃなく、若手も新しい技術をどんどん投入してくる。今回は某「カラリスト兼配信スペシャリストこと イニシャルB」からのご依頼のため、配信画に手作りのLUTをあててゴージャスな画作りをするという試み。やっぱりこの人すごいわ。僕も楽しく良い画作りに勤しみました。

RさんBさんHさんありがとう!

(一応個人情報にぼかしかけたら、画面ほぼ記者会見のため何も見えない絵になった…)

勉強会を…みてる人

今日はAfterEffectsの勉強会

…を後ろで見ている係。

かれこれ8年、モーショングラフィックスや映像学校の講師をさせていただいて、上達の秘訣とも言えるものを何か一つあげるとするならば。

それは結局「継続力」に尽きると思うのですよね。

継続してないことはどうやっても身につかない。

学歴や資格のように、いったん合格したからOKというわけにいかない。日々磨き続けないといけない。

そして、その継続力を発揮する手法として、一つあるのが「強制力」を自発的に持つこと。

様々なクラスで催されていますが、クラス単位の勉強会。一所懸命に自分たちの新作を作り、発表し、内容について解説する。このループを回し続けていけるか否か。学校という場が卒業後も機能する大事な部分です。別にここで収益あげようとは思わないけどね。僕はいつも、ただお菓子買って後ろで見てるだけのポジションです。あとなんか司会進行にトラブルがあった際、喋って場をつなぐ係。

どうしてもこういう会を継続できるクラス、なかなか開催できないクラス、いろいろありますが、できる限りは続いて欲しいし、僕もできる限り顔を出していきたいと思います。

みんなお疲れ様でした!

そして最後に…「こういうのやりたいな」「うちのクラスでもやりたいな」と思った方には…一つ伝えたいこと。「自分で声を上げる」。これに尽きます。みんなそれぞれ「誰かまとめてくれたら、手をあげてくれたら乗るのに」「僕なんかが声あげても無理だから…」とそれぞれに遠慮しては消えていくのです…