いつの日か、お役御免になる日が来る。
誰でも。いつでも。
それはとても健全なことだ。自分のポジションにしがみつくよりも、笑顔で去りいく方がよっぽど凛々しい。
「ここまでありがとう。じゃ、次は何をしようか。もう一度最初から」
いろんなゲームを毎回最初から楽しめるなんて、最高じゃないか。

僕は視聴者を「中毒」にするような映像は作らない。
そもそも「人を中毒にする」ものをばら撒いて皆が求めてくるようなビジネスにしようとは思わない。それは品格の否定だ。
ちゃんと判断して、必要な人が必要なだけ求めてくれて、ありがとうといってもらって、その方の人生がプラスになるものだけ作りたい。手に入れられないとマイナスになって渇望して、場合によっては手に入れるために治安を崩すような状態の人を作りたく無い。
でもそんな清廉潔白なものを作りながら、継続的に組織を維持できる、何十年も収入を作り続けるのは難しいともわかっている。これまで様々な経営者が、賢い方々が、大志を抱きながら、良い社会を作る大望を抱きながらも、生き延びるために中毒性のある商品を作ったり、ブラック企業になったり脱税しなきゃいけなくなったりする状況も、情緒的に理解する部分はある(肯定はしないけれども)。
結果、僕の自分ごととして判断できることは…組織を作らない。個人で、食えなくなるまでやる。求められなくなったら、それまで。
…そう言いながら自分が生きるために何かやっちまう可能性もないわけじゃ無いが、小さな立場でなるべく世界に影響を出さないように、ひっそりと生きていきたい。
従業員の飯種を常に生み出し続けることはとても偉大なことだが、そのために消費者を中毒化させることは下品だ、と思う。
それでゴーイングコンサーンとかふざけたこと抜かす経営者は大嫌いだ。この言葉も大嫌いだ。
役を果たしたら終われ。永続性を元にした会計も変われ。税金も変われ。資本主義よ変われ。もう21世紀だぞ。
たかだか400年の歴史しかないビジネスなどいつかは終わる。歌と踊りと恋と酒、そして祝祭が残る世の中だ。
東中野に事務所を移して、彌榮制作まだまだ頑張ります。
今から13年前のブログに
http://www.zerokai.co.jp/royalscam/?p=3905
そう、部屋の中央に向かって仕事する。
これはモノづくりをする上で欠かせないスタンスだと思っておりました。
ただ、現実にそういう部屋を作ることは非常に難しく…。
今回、頑張って広いお部屋を借りて、自分自身が納得いくスタイルを作り上げました。部屋の中央に席を設けながら、3方をPCに囲まれた小室哲哉スタイルです。

昨年、ここでも書いたけれども。
http://www.zerokai.co.jp/royalscam/?p=6802
僕は1992年4月10日に上京してきた。
あれから、今年で30年。僕は人生の半分どころか、物心つく前などを省いてくると、人生の大半、富山を出てからの時間で過ごしていることになる。
もちろん、富山の環境が僕の根幹になっていることは事実なのだけれども。
あの頃に憧れた自分になれただろうか、と言う問いに対しては「だいぶ斜め上の方向だけど、昔の僕が好きなタイプの大人になれたと思うよ。憧れに近い状態にいると思うよ」と答えられる。
こんな人生になり得たことが、何よりも、嬉しい。
30年前、僕は西日暮里の予備校寮にやってきて、初めての一人暮らしをスタートさせた。
あそこから僕はどんどん自分の人生を加速させて、今や訳のわからない変態紳士になってしまった。
今日は、BYNDワークスプレビュー。
また、僕は先生などという「僕が大嫌いだった」立場から皆様の卒業、門出をお祝いさせてもらった。
そう、先生なんて偉そうな、権威主義な、そんな大人にはなりたくなかったのだけれど。
でも、今の僕は「たすくせんせい」と呼んでもらえていることに喜びを感じているし、皆の成長を心から嬉しく思っている。
ひと月前にPCに触れることさえ難しかった方が、今日は晴れやかな姿で自分の作品を紹介してくれている。
せんせいという立場で、皆様を見送るのも、案外悪いものじゃないかもしれないね。
30年前の自分よ。君はこれから数奇な人生を歩むことになるからね。
クビを経験し、会社設立を経験し、倒産を経験し、売り飛ばしを経験し、大病を経験し、監禁を経験し、借金数千万を経験し、殺傷沙汰を経験する。同時に、意中の大学に入り意中の会社に入り意中の人と結婚する。順風満帆な上に暗礁にのりあげまくりの人生だ。その挙句、作家になりたい夢だけはまだ持ち続けたまま、訳の分からない変態紳士として自分のモノづくりと言葉にプライドを持って人様の役に立つ仕事を一本どっこでおこなっている。80年代サブカル文化人に憧れたまま20年代サブカル文化人の端っこっぽいことをやっている。
とっても幸せだからね。覚悟しなよ。

話半分に書いてしまいましたが、事務所移転は本当です。
4月より、彌榮制作のスタジオが市川市から東中野に移転することになりました。
これまで20年住み続けた市川市から一旦これにて離れることになりますが、ラジオや信金さん、代理店さんとのお付き合いは今後とも続け、より市川発展のために尽くしていきたいと願っています。
これまで倉庫として借りたワンルームを無理やり作業場にしていたのですが、今度は最初から事務所です。そして帰らない僕のための寝床です。
面積も2倍、自宅までも10分、BYNDまでも15分、それぞれ乗り換えなし。こんな素晴らしい環境に移れて幸せでございます。毎日ポレポレに入り浸ります。
引っ越し自体は4月後半に行いますが、また皆様遊びに来てくださいませ!
以前の市川の倉庫を、僕は祭りから名を取り「山倉(曳山を格納する場所)」と呼んでおりましたが、今度の場所は「新山倉」と呼ぶことにします。
平成3年に移転した山倉のイメージをもとに、心機一転、より末長く、永遠に栄える、彌に榮えることを願い、東西東西目録一つ、彌榮制作若連中にくださります。皆様ありがとうございます。

時々、勘違いしそうになる。
映像を作り飯を食べ、あまつさえ(以下なんかすごいことやってる様にだけ見える実績・御託を並べると腐臭がするので割愛)なんて扱いを受けてると、自分自身が「すごいことができる人」「すごい人」「偉い人」になった気がしてしまうのだ。
ばーか
自分のばーか
僕は社会不適合者だよ。役立たずだよ。人様のお役に立つことをして生かして頂く立場だよ。
僕の肩書きは表向き「神出鬼没の変態紳士」そして裏の顔は「街のビデオ屋さん」。
そう、街のビデオ屋さんだ。
映像作家も名乗っちゃったりするけれど、ビデオグラファーなんて名乗ったりもするけれど。
隣の家のVHSが壊れたら駆けつけて直して、ダビングサービスをやり、町内で感謝をしてもらうために奔走するのが僕の仕事だ。業界的な意味で「かっこいい」ことなんて何もない。
そのスタンスを、決して忘れることなかれ。
(こういう書き込みが続く時は自分が揺れている証です。本物と世間のギャップに翻弄されている証です。)

いつ、この生活ができなくなるかわからない。
お金も家も家族も手放さなければならない日が来る可能性はいくらでもある。
それを覚悟するのは怖いことだけど、そもそもフリーランスになった時に腹を括ったはずじゃないか。
今のような平穏で幸せな暮らしができる様な大層な人間じゃないはずだ。身の程を知れ。
…という心持ちを常に持ちながら、今日も生きるのです。日々のお仕事を頑張るのです。何より僕は好き放題に生きさせていただいています。何にも我慢しておりません。我慢して何かをすると「こんなに頑張ってるのに」といった妄言が出てしまいます。僕は頑張ってないので「すみませんありがとうこんな僕を生きさせてくれてありがとう」という気持ちしかありません。でももうちょっと頑張ってくれ髪の毛。
その代わりに、だ。
明日、段ボールにくるまって寝る日が来るかも知れない。自宅の近くにある公園を見るに「明日はあそこで寝ることになるかも知れないな」と常に思っている。 (かと言って浮浪の生き方をする方々を非難するつもりもありません。心のどこかには、その自由な生き方を「自ら選んで」歩む方への憧憬も僅かながらあるものです)
同時に「いざとなればいつでもそれができる覚悟」というものは持ち続けたいな、と。
「家族を食べさせなきゃいけないんですよ」とへーコラするよりは、このままで許してくれる方がいる間は感謝し、許してくれなくなったら今の暮らしを手放す。社会に僕を合わせるのではなく、このままの僕を生きさせてくれる社会には感謝するし、このままの僕を否定するなら弾いていただく。
結論、このままの僕は変えない。変わらない。変えるつもりがない。良かろうと悪かろうと。公共的だろうと反社会的であろうと。野生的だろうと貴族的だろうと。
(下記、山谷崖っぷち日記/大山 史朗著 より引用)
少年期から、自分がまともな大人の世界の中で生きていけるとはどうしても思えなかった。社会に出て仕事をもち、一人の女性と家庭をつくって子供をもうけるというような生活が、私にも訪れてくるだろうとは、心の深い部分ではどうしても信じられなかった。そういう生活がしたいかどうかというよりも前に、そういう生活が自分にはどうしても現実感をもっては感じられなかった。
自分は人生に向いていないという深い確信があった。この確信を振り払うように、ある時期までは社会への(つまり会社への)過剰な適応努力を続けたこともあったわけだが、結局その努力も生理的に限界があったことがわかり、むしろホッとした気分になった。そうなのだ、、あんなところ(会社や社会)が私の生きる場所であるわけはないのだと、深く納得するところがあった。
