今日もめっちゃ長いから覚悟しろ。
僕のブログ史上最長だ。覚悟しろ。
そしてすみません、僕は書くことでしか感情を消化できないのです。
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〜「終わり良ければ全て許される」とは思ってないからね〜
母が亡くなりました。
死因は1月に発覚した、とある末期がんです。
入退院を繰り返していましたが、5月に入り急激に体調が悪化し、18日に息を引き取りました。
本人はともかく「ひっそりと消え去りたい」という希望にて、通夜も葬儀も行わず、このような後日連絡の形をとりました。
(故人の気持ちを尊重し、富山〈特に地元の町〉の方は若干外して投稿しています。万一地元の方がいらっしゃったら、そっとしておいてくださると幸いです…とはいえ、私が本件を放言することはある程度想定・許容してくれていた模様です)
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前文
僕は不孝者です。
18歳の時に家を出て、そこからほとんど実家に帰ることもなく、弟と妹の面倒も放ったらかしに、自分の酔狂のためだけに半生を過ごしてきました。
親の面倒も考えず、祭りやイベントごとなど、時々実家に顔を出しては母のご馳走をいただいてまた足早に去っていく…とんだろくでなし息子です。
さぞや寂しい思いをさせてしまったと。今さら後悔しても遅いのですが。
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1月某日
早稲田松竹で小津安二郎『東京物語』を観た翌日。
母から末期がんにかかっているという手紙が届く。
まさか「家族と絆」「親と子」「老いと死」をテーマにした作品を見た翌日に、自分の身に降りかかってくるとは。
「もって1年、ですが気にせず普段どおりの生活をしてください」と。
普段どおりになんていられるか、と思いつつも、母らしいなと思う。
とにかく人の迷惑になることが嫌い。それでも自分の意志は絶対に貫いてきた母。
母曰く、
「貴方は普段どおりに生活しろ」
「葬式はしない」
「墓も作らない」
「骨は海に撒け」
「延命治療もしない」
「入院もしないで楽しく生きる」
なんとわがままなことか。この言葉をその通りに受け止め、さまざまな人からの非難や叱責を一気に受け止めて半年間毎日母をサポートした父のすごさが浮き出るが、それはまた別の時に語ろう。
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4月2日
4月に帰省した時はまだしっかりしていた。
おいしい焼肉を食べ、ビールに口をつけ「楽しく生きる!」と笑っていた母。この時に食べた晩餐が、母の最後の手料理でした。
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5月7日
5月に入り、緊急入院の知らせが。
GW最終日に富山に戻り、痩せこけた姿を見る。
詳細は分かりませんが、がんとは別の感染症にて衰弱してしまった模様。
その時、兄弟一人ずつ病室に呼ばれて、いわゆる「最期の挨拶」を。言い残しておきたいことや約束など、10分程度の会話をしました。酸素吸入器越しのわずかな声でしたが、感謝を伝え、約束を行いました。
最期の挨拶を行い、これで万一の時に会えなくても「悔いはない」と言い聞かせていました。
翌日、感染症の治療とともに、元気が復活。
「お父さんの不満ぶちまけてたら元気出てきた!」とみるみる活力が戻り、一緒に笑顔で会話していました。
(とはいえ、もはや大腿骨へのがん転移もあり、ベッドから起きることは困難な状態でした)
なんだか、公式な挨拶をした後なので気恥ずかしさはあったけれど、楽しく会話して「これならもう少し元気な顔を見ることができるかも」と一旦帰京しました。
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5月14日
多少お仕事に余裕があるタイミングを見て、改めて面会のため富山に帰省。
衣類も一泊分しか持たず、まだ何回か東京〜富山を往復する機会はあるだろうと考えていた。
感染症は治ったものの、その間にも体は衰弱し、がん細胞は増幅する。
延命治療・抗がん剤を受けていない母は、想像以上に痩せ細っていた。
5月の緊急入院から、自宅に帰ることはできず、そのまま「看取り病棟」に移されていた。
※看取り病棟=患者の終末期に、尊厳ある日々を過ごすための病棟
もちろん地元に父も弟もいる。が、彼らには彼らで仕事や守る家族が別にある。
合間を縫って、毎日2時間だけ見舞いに来る父。2日に1回、仕事終わりに県外から見舞いに来る弟。
できる限り母を気遣っての生活、そして皆の中にある寂しさを堪えての日々。
その中で、一人経営者とはいえ、実質プータロー、無職と変わらない僕。
僕にできることは…多分、ただ一つ。
その日から「最期まで、母のそばに居続けよう」と。
(看取り病棟は、そのまま家族が寝泊まりできる環境も整っており、仕事もできるWi-Fiも繋がるという、僕にとっては非常にありがたい環境でした)
この日から、僕は5日間泊まり込みで、ずっと母のそばにおりました。
あ、もちろん仕事も進めながらね。ぶっちゃけめっちゃ快適な仕事環境でした。緩和ケア病棟すごい。ありがとうございます。
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5月15日
母と会話。
「ガリガリ君が食べたい」と。
既に食事をとらなくなって久しい母は、水分をガリガリ君だけで確保している。
口にスプーンを持っていって、3口ほど食べては眠る生活。
多少は会話が伝わる。笑顔も見える。
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5月16日
胸元で大きく呼吸するようになる。
睡眠なのか、目を瞑っているだけなのかが分からない状態が続く。
声が聞き取りづらくなるが、それでもニーズは「ガリガリ君」「口が乾いた」「姿勢を変えてほしい」の三択あたりなので、難しくはない。
眠りを邪魔しないように、それでも僕から話しかける。
弟や妹が生まれる前のこと。喫茶ジャスミンでずっとゲームしていたこと。お金がなくても図書館でいっぱい遊ぶ日々を過ごしたこと。20歳で僕を産んでくれた母は、それこそ20代の輝かしい日々を、僕と弟にすべて注ぎ込んでくれた。
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5月17日
何も食べていなければ、体力は極端に落ちる。
あくまで緩和ケア。栄養点滴を打つわけではなく、「安らかに、痛くないように最期を迎える」ことに特化した病棟。
体力の低下は見えつつも、眉間にシワを寄せるなど、痛みが出ていないかどうかだけ意識して、いわゆる「モルヒネ的な何か(医療分野分からず)」を投与して、痛みが出ないように、楽になるように導く。
呼吸は少しずつ浅く、そして意識は混濁しているように思う。
コミュニケーションは「痛い/返事がない」の二択に絞られる。
この日は、僕が大好きな「伏木曳山祭」が開催される日。
この祭りは、もともと母の生まれ育った地・伏木で行われているものだ。
母に手を引かれて——もとい、乳児で抱きかかえられている頃から、この祭りは母と共に見ていた。
毎年この祭りに参加している僕も、今年は参加を控えさせてもらった。急遽の不参加、伏木湊町の皆様にはご迷惑をおかけしました…。
伏木の町から2駅しか離れていない病院で、僕は母の枕元で、お祭りのYouTube中継を流して一緒に見ていた。
心なしか、母が笑った気がした。
「貴方は祭りが好きで本当にしょうがないねぇ。家にも帰ってこんで」と、愚痴を漏らしたように聞こえた。
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5月18日
僕は病室で起きて、真っ先に母の様子を見る。
明らかに、呼吸が弱くなっている。
そして何より、手足の温かさが薄れている。
主治医の先生も、明言はしないが「ギリギリのところ」とお話ししてくれる。
なんとなく、次の朝日は拝めないかも…という予感がする。
昼過ぎ、父が見舞いに来る。
父と母の二人の時間をつくるためにも、僕は一旦外に出る。
父と母が出会った高校の周り、母と一緒に行った高岡市美術館など、近くを散策して帰院。
夕暮れ。
手足が少しずつ冷たくなってくる。
当然、看護師の方も状況は理解している。「足はまだ温かい。辛くはなさそうだ」という言葉を聞きつつ、認めたくない現実を受け入れる覚悟をしながら、母にたくさん話しかける。
母はRolling Stones、ジュリーが好きだった。
VJやDJっぽいことをやって仕事にしてきた僕は、そっとプレイリストを作ってかけ始めた。
Jumpin’ Jack Flash
シーサイド・バウンド
花の首飾り
Brown Sugar
She’s a Rainbow
…
プレイリストの最後には、母が大好きだった曲「Angie」。
少し、嫌な予感がした。でも、この曲をかけないわけにはいかなかった。
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僕たち頑張らなかった訳じゃないさ
アンジー、君は綺麗だよ、とっても
僕たちはこれからどこへ向かうって言うんだい?
生きるっていいことなんだろ?
でもさよならの時なんじゃないかな
僕たちはよくやったんだよ(抜粋)
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17時40分ごろ。
5月の高岡。日没が近い。
Angieをかけながら、僕は母と会話を続けていた。
酸素吸入機を付け、目を瞑ったまま反応がない母に、僕がポツポツと語りかけていた。
そこまで美談に、そこまでカッコ良い終わらせ方、演出めいたことは言いたくないけど…
Angieが流れ終わった頃、
母は呻くようにひとつ、喉を鳴らした。
「あれ母さん、まだ飲み込める力あるじゃん」と僕は言った。
そして、母から呼吸音は聞こえなくなった。
主治医さんからチェーンストークス(終末期に呼吸が不安定/無呼吸になる時がある)という言葉も聞いていた僕は、少し様子を見た。
3分経っても、呼吸が戻る様子はない。
「表情筋がなく、人形のような顔」に見えた。
ああ、あの声が「その時」だったんだな。
と悟った。
これが延命処置、少しでも長く生きたいという母の願いがあるなら、すぐにナースコール、『ER』や『アンメット』のように「急患!」「オペ!」の展開になるのだろうけど。
僕はそうはしなかった。
ひょっとすると、僕は臨床的に不義理なことをしたのかもしれないけど、
僕はそのまま——
15分程度、母の(おそらく)亡骸とともに、二人の時間を過ごした。
きっと旅立っていると理解しながらも、その宣告が怖かったのかもしれない。
でも同時に、母のその瞬間を、僕一人が独占してしまった「負い目」がある。
毎日見舞いに来ていた、配偶者でもあり、母をとても愛していた父。
母に可愛がられ、地元に暮らし続けて家族をつくった弟妹。
彼ら彼女たちを差し置いて、僕一人が母の最期120時間、独占してしまった。
いや、独占じゃない。あくまでも、父や弟妹の代わりとして、僕がここにいるんだ。
じゃないと、僕は「最後の主役級、美味しいところだけ持っていくずるい長男」になってしまう。まあ、ずるい役どころばっかりやってるのは間違いないんだけどね。
5日間、120時間。僕は母のそばにいた。
これだけで、今までの親不孝が許されるとは全く思っていないし、
もっと親孝行すればよかったという浅はかな後悔も浮かぶ。
父や弟の「お前ずるいぞ」という言葉も聞こえる。
しょうがないがな、これがブラブラしてるフリー長男の仕事であり、特権やぞ。
安らかに旅立ちたい、痛くないように、楽なように過ごしたい。母の願いがそこにあるならば、決して間違ったことはしていない——と信じて。
僕は15分ほど、呆然としながら母に話しかけていた。
そんな18時30分。
覚悟を決めて、看護師さんを呼びに行きました。
その後は、定型通り。当直のお医者さんが来て、聴診器診断と網膜を確認して、その時を告げた。
日は既に落ちている。
次の朝日は、母がいない世界に昇る。
お医者さんも戻り、家族が到着するまでの間、僕はひたすらJumpin’ Jack FlashとBrown Sugarを流して踊っていた。
僕に泣く権利はない。不孝者が最期、これだけ側にいておいて。悲しむのは父と弟妹で充分だ。
変態紳士たるもの、母の旅立ちを踊って見送るのが礼儀だ。
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まとめ
その後の話はもういいでしょう。長くなりすぎました。
「親の死に目に会えないと後悔する」と聞きます。
僕から母に関して言いましょう。
死に目に会えない的後悔、まっっっっったく、無い!
もうこれでもかというほど、最期をそばで過ごしました。
そしていわゆる「ザ・その瞬間」を僕は母の顔を見ながら送ることができたのです。心電図も何もないけどね。ただ一人だけ。僕だけが独占して。
いやもちろん、もっともっと側にいたかったのは本音ではあるけれど、それを言い出すと「こうなってから来るんじゃなくてな、毎年な、ちゃんと挨拶するとかな(略)」と説教されます。
「あのとき感謝を伝えられなくて後悔」とも聞きます。
感謝伝えられない後悔、まっっっっったく、無い!
(後から出てくるかもしれんけど)
5日間、途中からはほぼ一方的ですが、僕の知る限りの思い出をたくさん話させていただきました。正直途中から「えーと…あとなんかあったっけ…」みたいな状態になりました。なかなかこんな看取りは少ないでしょう。感謝も懺悔もいっぱいしました。むしろ懺悔ばかりでした。多分「お前はいいから弟と妹の話も聞かせろ」と言ってることでしょう。
後悔してるかどうかなんて、言い始めるとキリがありません。
でも、母は僕にその後悔を少なくするプレゼントを沢山くれたのです。
懺悔をする時間、親不孝を少しでも返すことのできる時間、共に過ごす時間、感情の整理ができる時間……
最期まで僕は、母からいろんなものをもらいっぱなしでした。50にもなって。
「本当にお前は調子がいい。最期の最期、一番美味しいところだけ持っていってドヤ顔して、孝行した気になっている」
——ごめん、お父さんお母さん。僕をこんなお調子者に育てたのはあなた方です。(加えてかみさんです)
これを「強運」と言って良いならば、僕はとてつもない「強運」を持って生きています。むしろ運と縁だけで生き抜いています。
この「運」は、母だけじゃない。祖父母、叔父叔母、たくさんの「僕を愛してくださる方々」が「いまだに手がかかるマルコメ坊主=僕」の面倒を見てくれているからだと信じています。
甘えていていいわけじゃない。
これで許されるわけじゃない。
まだまだ頑張っていきます。
生きててすみません生まれてすみません。
映像作家で映像講師
モーションデザインテレビ屋さん
お調子者の祭り好き
放蕩息子でろくでなし
神出鬼没の長男坊主
山本輔でございます。
ありがとう。お母さん。
貴方からこんな変なのが生まれてきてしまいました。
僕の文章をずっと応援してくれた母さん。
一冊でも、母が生きている間に商業出版出来たこと。ほんの僅かでも、孝行になったのかな。
ブログもFBもインスタも、全部チェックして全てに「いいね」を押してくれていた母さん。
最後の「いいね」は5月6日。
このFB記事に、「山本 恵子」から「いいね」が付くことはないと分かっているけれど。
本当にありがとう。











