日々、勤めて黙々と自分の人生と向き合っている。
浮き沈みがある世界の中で、それでも浮いていかないと周囲の大事な方々を幸せにできない。のんべんだらりと鷹揚に。
ふと、14年前の自分のブログ記事を発見した。
http://www.zerokai.co.jp/royalscam/?m=201206
結論から言おう。14年前から、さらに言うと大学入学の頃から、僕の50代は「なるべくしてなった」にすぎない。まさにこういう人生を歩もうとしてその通り歩んできて、こうなっている。
あとは小説を書くしかない。
(以下、一部引用)
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そもそも文学部なんてもの自体が社会の役に立つものではなく、どこまでも果てしなく自己内面にもぐっていくものだから、あまりロクなものではない代物なのだ。
引用させていただく。
「文学部というのはカネや安定に価値をおくことなんてまずなく、カネがなく不幸で転落して、ダメな人生を生きることに価値をおく。文学部なんて小説でも書かないかぎりそれでビジネスで成功したりカネが儲かるという栄光からほど遠いものである。
はっきりいえば挫折と転落と、凋落を糧に文学部的価値観は躍進する。文学部は職を転々として、女にだまされ、借金をつみかさね、悔恨や後悔でいっぱいの人生や精神に価値や憧れをおくものだ。いわば失敗した人生に憧憬と崇高をみるのだ。経済学部的価値観が転倒したものだといえるだろう。」
Links to 経済学部的価値観より文学部的価値観のほうが幸福かも
その中でも、僕の属していた大学の文学部は、全国の高校から選抜されたキングオブ駄目人間・スレッカラシ人間・堕落人間が集まってきていると過去から喧伝され、評判の場所だった。また実際、噂以上ににそうだった。まるでスポーツ選抜のような風体で、駄目人間選抜試験をやったのじゃないかと思うくらい。そしてその場所に受かった僕は駄目人間合格者だったという事か。ありがたい。
因みに、凋落、ヤサグレなんて言葉を使ったが、これは決して悪口ではない。むしろ、金銭や出世、女性からモテるといった社会の価値観から如何にはみ出るか。借金をこさえたり博打で失敗したり女性に捨てられたりしてどのように凋落した駄目人間になるかを競い合うような場所だった。いろんな人生の破滅、堕落、絶望をやることこそが大学生活の価値だと思っていた。少なくともこの大学においては。
そしてそれこそが、人間修養であり価値観を高めあう事だと心底信じていた。そして、そう信じている人たちが廻りに沢山居た。確実に居た。更には教授に至ってもそういう考え方だった(と思われる)。
どれだけ社会の枠から堕ちることができるか。それを心行くまで競い合い、心を震わせ、考える事ができた時間。それが僕の大学時代だった。常に小脇に抱えた書籍と共に。
先人達が、自身の大学時代を書いた小説やエッセイも多数残っているが、そのどれも自虐的に駄目な生活ぶりを描いたものばかりだった。そして高校時代にそれを読み漁り、僕は全うな社会人から踏み外した道に目覚めて憧れてしまったのだ。
だからこそ、言い訳の仕様がない。その堕落した生き方に惚れてしまって、その堕落を求めて、入学してしまったんだ。「こんなはずじゃなかった」なんて全く思わない。駄目人間になるべくしてこの場所に入り、希望通り駄目人間としてのスキルを高め、社会に非貢献する立派に価値観を間違えた堕落社会人として成長する事ができた。
僕はそうなるために、そういう未来のために、この大学に来たかったのだ。そして希望したとおりの生活をし、学ぶ事ができたのだ。それはそのほかの大学で学ぶ、いわゆる研究や学問といったことから全く外れた、ただの放蕩であったとしても。その放蕩をどの大学よりも高いレベルで行う優秀な駄目人間が集まる大学で、巷の価値観から離れても、豊穣な人生を歩むための修練を積む事ができたのだ。贅沢な事をさせてもらったと思う。
研究とか論文とか書いている学生をみると、えらいなぁ、と心底思ってしまう。僕の経験してきた大学時代というのは、万人の考える大学時代とはちょっとずれてしまっているようです。