「かみさんはピアニスト」

今日は、演奏会でした。

かみさんがステージひとつをまるごと担当して、ピアノを弾いた。

この一年間、ほぼそのために生きていたと言っても過言ではない。

食べて、寝て、手芸をして、また楽譜を開く日々。生活のすべてが「音楽」を向いていた。(後は手芸)

僕がかみさんと出会ったのは1995年のことだ。

その時すでに、彼女はピアニストだった。合唱の伴奏者として、大学では毎日8時間、鍵盤に向かっていたらしい。

付き合い始めの頃は、僕もその「熱」の真意をちゃんと理解していなかった。いや、理解しようとさえしていなかった気がする。

彼女の本当の「腕前」に僕が驚愕したのは、ずっと後。2013年のことだ。

大学時代の演奏を記録した古い音源を、後輩が偶然データで持っていて、それを送ってくれたのがきっかけだった。

1995年、和光市アゼリアホール。

曲は《そよぐ幻影》。

再生した瞬間、空気が変わった。

言葉にすると安っぽくなるが、「響き」が研ぎ澄まされていて、何かが鳴っているというより、**何かが“在る”**という感覚だった。

——こんな音を弾く人と、僕は一緒に暮らしていたのか。

目の前の妻が、そのときだけ少し遠く感じた。

病をきっかけに、彼女は10年以上、ピアノから遠ざかっていた。

でもその音を聴いたときに僕は、はっきり思った。

もう一度、この人にピアノを弾かせなきゃいけない。

たぶんその思いが、僕が独立を決めた一因になっている。

「家族を守る」とか、そんなドラマ的な理由じゃなくて、もっと勝手でわがままな衝動だ。

あの音がまた聴けるなら、それでいいじゃないか。そういう感覚。

小説家・山口瞳は言った。

「作家はちゃんと遊ばなきゃダメだ。読者はあなたが遊ぶために金を払ってくれるんだから。遊んで得たものを提供するのが、作家の仕事なんだよ」

もちろんここでいう「遊び」は、呑む打つ買うじゃない。

哲学書を読み、美術館で立ち尽くし、最高のウィスキーを舐めるようなことを言っている。あ、結局飲んでるか。

僕は作家なのか、なんなのか、よくわからない生き物だけれど、

映像や色や物語について語り、作り、それで日々のお駄賃をいただいて生きている。

自分の仕事を「芸事」と言っていいなら、それなりの覚悟と代償を持ってここまできたつもりだ。

ただ、どうしてもそこで——自己完結してはいけないと思っている。

誰かもう一人、「酔狂人」を世の中に生きさせなきゃいけない。

それはビジネスでは実現できないことだし、従業員にも要求できない。

強いて言うなら、それは「パトロン」だ。

——自分で芸事をしながら、他人の芸事も支える。おかしいだろう。正気の沙汰じゃない。

でも、それが僕の最後のプライドだ。

「文化に貢献する酔狂人(あえてそう言う)」を自由に生かしているという自負。

しかもその対象は、クラシック音楽という最も贅沢な文化に、少しでも触れている人。

その人に「どうぞ、ピアノをお弾きなさい」と言える贅沢。

これ以上に報われるお金の使い方があるだろうか。

僕はかみさんに、こう言っている。

「仕事なんてしなくていい。家事も一切かまわない。

毎日ピアノを弾いてなさい。手芸でもなんでも、自分の世界に没頭しなさい」

これは甘やかしではない。

僕たち二人がこの世界で何を成すかを、25年かけて検証して、導き出した最適解だ。

とはいえ——

かみさんは結局、仕事もしている。

それはつまり、

・僕をつまらない方向に進ませないよう、矯正すること。

・付き合ってはいけない人や案件を、直感ではなく、第三者視点で判断すること。

・そしてクライアントと喧嘩になりそうなときは、一緒に矢面に立ってもらうこと。

正直、同席してもらうだけで「たすくなら御せる」とタカをくくっていた相手が、静かにビビる。あれは痛快だ。

…こうして書いてみると、結構、仕事してもらってた。

でもそれは、「労働」の対価ではない。

もっと深いところで、人生の価値そのものになっていく。

母は言った。

「あなたを労働者にも社会人にも育てた覚えはありません!」

妻は言った。

「あなたが真人間になったところで、いったい誰が喜ぶんですか?」

これらは、駄目人間の言い訳として使うものではない。

むしろ、僕がこの社会でどんな形で貢献するかの、コンパスのようなものだ。

僕は、自分で稼いだお金を、自分の欲望には使っていない。

ピアニストを育てるために、芸事を支えるために、文化という名の火を絶やさぬために、使っている。

だから最後にこう言いたい。

「僕以上に、私利私欲なく文化に投資してると堂々と言える人だけ、僕に石を投げなさい」

「とりあえず全員お金を投げなさい」

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