生きていく術

あるところから、とあるクラシックジャンルでの「無観客コンサート配信」という依頼があった。

そうか。これか。これなのだ。

訳も分からず無節操に活動していた僕の武器は、これなのだろう。こういう有事に「誰に頼めば良いのか分からないふんわりした依頼に」「よく分からないけど知見ありそう(今回で言えばクラシック音楽と映像に)」でニコニコと引き受けてくれる存在として。
(知見があるとは言っていない)

こういう時に「誰かの役に立てる」みたいだ。
ええ、二つ返事で引き受けましたとも。僕ごときで役に立てるならば。

僕の知見を持って、良い画を撮って、良い編集するよ!アニメーションで音符とか飛ばしちゃうよ!モーションアニメの指揮者とか線画の奏者とか登場させちゃうよ!(誰もそんなことは求めていません)

…結局4月も嵐の中で忙しいままに過ぎ去りそうだ。

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そう、なのよね。結局「企画が出来てシナリオ撮影編集デザインイラストナレーションアニメそして仕上げまで。かつ喋りと制作意図説明も営業交渉も」一人でやっちゃうというのは、それぞれのプロからすると「噴飯もの」なのかもしれないけど、こういう時には「安く、コミュニケーションロス少なく、一人とリモートで意思疎通しながらプロの仕事をする」人間が重宝されるんだな、と改めて思った。
まあ僕は死ぬほど忙しく脳みそがあちこちに走り回るのだが(誰か僕の脳みそマネジメントお願いします)。

撮影のプロでも、ナレーションのプロでもない。
でも、なんのプロでなくてもいいの。僕が作る映像は、「お客さんの頭の中にあって、なんか形にしたいもの」を具現化するのが僕の役目なんだな、と。
それが今のお役に立ってるんだな、と。

経済に打撃がある中、僕のような個人でできることがあるなら、どんどん使って価値をアピールしてほしい。事態が落ち着いたときに、経済をまたぶん回せるように。収録だって配信だって、コンテンツの企画づくりだってお手の物だ。なんだったら自分でフレームの中に立つことも厭わない。なんなら紙媒体も作っちゃうよ!(何故かパンフレット系の仕事が増え始めてる…何故だ…)

有事には極力おとなしく、インプットに勤しもうと思っていたのだけれど。
でも、それは欲張りな話。この時勢で依頼が来るものを拒むほど贅沢言っていられない。この春夏もノンストップ!

コロナにおいて

辛辣であることを前提で書く。
気が緩んで外出して大繁殖、となってもそれは致し方ないこと。

個人個人に自粛を要請しても、様々な思想の人間がいる限り統制も抑制もできないし、行動をお互いの「思いやり」とか「国民が一体となって」という曖昧な言葉で強制することはできない。

そのために国家があって強制力を用いることが許される権力を民間が自ら選べる体制となっているのであって、その権力が強制力(そして補填)を行使しなければ、大繁殖は起こり得る。

何度だっていう。大衆はそもそも愚民なのだ。賢く一人一人が自制心をもって組織的に振る舞えたことなど、古代ローマ時代から一度たりともない。更には、そんな「自立したマスゲーム」のような社会を理想としたこともないはずだ。(オーウェルの時代から、思想統制された衆愚自体は揶揄される存在だったはずだ)

いや、「愚か」という言葉が強すぎるのであれば言い換えよう。
様々な思想、それこそ死生観さえ違う大衆に、だれが「健康と生命が最も大事」という思想さえも強制できようか。

「長寿と健康が一番大事ではない」という思想さえも、一つの思想として許されるのが「思想の自由」の根底である(それは医学や法学の規範を覆えすものではあるが)。そして、それはウィルスという媒介の元では「生命と思想」のどちらかを抑圧せねばならなくなった際にどのような選択をするかを求められる。

全体の生命のために、個人の尊厳思想に歯止めをかけるのか、自由思想をもったまま滅亡に向かうのが美しい自由社会の正しい在り方なのか、という大きな思索のタームに入るのである。

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と書いたけど、一つ追記がある。

僕は確かに権威とか権力が大嫌いな人間だけど、強いて書く。

「おい権力、ちゃんとしろよ。
あんたらが強制とサポートをちゃんとやれば、尊厳と生命をどっちも守ることができるんやで。あんたらが「できる限り大勢の納得する強制力」を発動すれば、みんな「民主主義で選んだあんさんの意見や。しょうがねえなぁ」ということ聞くはず(聞かなければいけないはず)なんやで」と。

そしてその「できる限り大勢の納得」が間違ってたら、残念や。あなたたちは権力の座から引き摺り下ろされて、別の「国民に選ばれし」別の権力が立つだけだ。それで被害を被ったとしても、選んだ国民の責任だから仕方ない。国民主権とはよく言ったものだ。思う存分やるがよろし。ただ保身は考えるな。精一杯「良かれ」と思った行動をとって、その上で間違ってたら退場するがよろし。

フライヤーデザイン

世界で何が起ころうとも僕の仕事はアーンストッパブール。いいの。僕には休みが年に1日(5月15日)だけあれば生きていけるの。

ありがたいことです。いや本当に。いつどんな縁で何が起きるかわからないとはいうものの、
「撮影の仕事が少なくなると編集やデザインが増える」
「イベント登壇の仕事が少なくなると執筆や取材が増える」

個人の中でいろいろ補填しあってなんとか今を生きてます。
来月生きていられるか解らないけど、皆様のご愛顧があり、身体が続く限りは生き抜きます。

映像ばかりじゃなく、たまには紙媒体のデザインも手がけます。
とある団体のフライヤーとチケット、縁あって担当させていただきました。
まだまだ、頑張るからね。明日も頑張るからね。

そうだった明日はAOM(Aftereffects online meeting)に登壇します。
https://aom03.peatix.com/
すでに満席になってしまいましたが、万一空席できた際は是非とも!
お待ちしております。

おっさんが通用しない世の中に…なってほしい。

若者。頑張れ。社会からも逸脱したおっさんは若い人たちがバッサバッサと中年を軽やかに飛び越えていく姿をとても期待して居るぞ。

(以下引用)
2万年くらいずっと、人類というのは会社に勤めることなく、生きてきたわけですよ。100年って、2万年のうちでは0.5パーセントぐらいでしかないですよね。短いものってやっぱりこの先も短いので、たぶん会社もすぐなくなっちゃうんだろうなって思っているんです。
(略)
端的に言うと、この国で今、経営陣の人たちというのは、会社を成長させられなかった人たち。経営者失格です。
そういうまったくパフォーマンスをあげられなかった人たちが、大きな会社の役員とか本部長とかの席に座っているんです。今の世の中で、存在感を表わす会社を見てください。ほとんどみんな、20代の人たちが作っている会社ですよ。ですから、これはもう、諦めたほうが良いんです。
(略)
日本では20代はひよっ子、30代で一人立ち、40代で中堅のリーダー、50代で会社を代表するリーダーということなんですけど、この構図はもう完全に崩れ去っています。
価値はもう、年齢フリーです。世代フリーの時代が来たということなんですね。価値を出したほうが偉いということなんです。そういう世の中になっているにも関わらず、「基本的に若い人の価値は低い」という前提の中で構造が出来上がっている環境に、価値を生み出せる若い人たちがいるのであれば、僕は「即座そんなところは出ろ」と言っていますね。
(引用終)

https://logmi.jp/business/articles/322545?fbclid=IwAR3BINNn-CD4GXsiSpwUdPbGwE-NvGgnjfdc4xpp7b4iEaheWCzCpN7GnSg

やりたいことをやるためにフリーになったんだ

人が求めるものを探して、ニーズに合わせて行動を変化させるのが市場主義だというならば、僕はそんな主義には賛同、同調しない。
自分のやりたいことをやる。

その上で、こんな我儘な僕を、それでも求めてくれる人がいるならば、その人のために全力を尽くす。精一杯心を込めて、僕のできることをやる。

僕を「収益を上げるツール」「労働力」「コスパの良い作り手」としてではなく、一人の人間として扱ってくれているのだから、そりゃもう当然の礼儀だろう。

昨日は編集ルームに籠り、今日は一眼レフを構え、明日は教卓に立ち、明後日はラジオマイクの前に居る。

僕は何屋でもありません。神出鬼没の変態紳士です。

僕を必要としてくれる方と、僕の思いの衝突が。

悩み事、というほどじゃないのだけど。

ありがたくも最近はお仕事、というか、人様のお役に立てることが少しづつ増えてきたのかな、と思う。皆様からお依頼され、お引き受けし、喜んでいただくことも増えてきた。ありがたいことです。

そうすると、自分一人の手では回らなくなってくる。さすがに自分自身の身ひとつでできることにも、物理的に限界が出てくる。僕に限らず、割とよくあるお話だと思う。
このステップを経て、誰か人を雇い、チームを作り、自分が大事な方々を幸せにできる範囲を拡大し、起業、法人成り、というものを考え、またそれをよしとする発想もあるだろう。

しかし、やはり僕はそれを「是」としないのだ。
何故ならば、僕自身が「雇われる」ということを唾棄してしまったのだから。

自分が唾棄するだけならいいじゃないか。他者は他者、自分は自分で、他者の考え方も尊重して受け入れればいいじゃないか、と思うかもしれない。

でも、それじゃダメなんだ。
自分自身がそれでも苦しむのです。

雇うよりも、手前の段階で、僕自身が煩悶するのです。
今僕は、様々な方に仕事をお願いして、手助けしてもらって、なんとか僕自身を盛り立ててくれている。本当に感謝している。それ自体はいい。それ自体はとてもありがたいことです。

ただ、自分がどなたか信頼置ける方に仕事をお願いする時に、やはり「お願いできるな」「ありがたいな」と思うのは「素直で」「従順な」方になっていることに、僕は自分自身身震いしているのです。
いや、素直で従順なのはいい、それは人として素晴らしい資質だ。
でも、一歩踏み間違えると、求めている人材が「自分で考えずに唯々諾々と従って行動してくれる『考えない、意見しない人間』」になりそうなのが怖いのです。

あれ、僕が仕事で「助けてもらえた」と思える人って「自分で考えることを忘れた人種」な人だったの!?
僕が「そんなもの捨てちまえ」「やめちまえ」と叫んでいた側の気質に、助けられているの!?
ここが、僕にとって、とてつもなく、コンフリクトするのです。

嫌なのです。「自分で考えることをしない人種」なんて、人としてあってはならないスタンスだったのです僕としては。権力に嚙みつけ!権威を潰せ!自分の意見を持て!「個」として生きろ!と叫んでいるのに、自分が仕事をお願いする相手が「自分でものを考えない」人だとしたら、それは自分が許せなくなるのです。
それは、世間で「サラリーマン気質」と言われる。雇う側からすると、とても便利な人材だろう。

「やっぱりサラリーマン気質の人間に依頼するのが楽なんじゃないか」「サラリーマン気質を是として仕事進めるんじゃないか」「お前も自分が忙しくなってきたら、手のひら返して歯車を欲しくなるんじゃないか」「ものづくりなんて偉そうな仕事しながら、どうせお前もチャリンチャリンシステムを作りたくなったんだろ」と自分自身に対して思うことにとてつもなく苦しみを感じるのです。

嫌なんだよ。嫌いなんだよ。むしろ滅びてほしいと思うくらいに大嫌いなんだよ勤めるというスタイルが。
そしてこの従順さを求めて仕事を依頼する感情を突き詰めていくと、結局「保証を与えて」「一生雇い続けて社会の素晴らしい歯車として活躍して頂こうそれが社会貢献だえっへん」というスタイルに行き着く自分が見えるんだよ。そんな人生、誰にも勧めたくないんだよ。それは僕自身が苦しみ、そして自分が逃げただけじゃなく、立ち向かってぶっ壊そうとしている姿じゃないか!

そしてそのために、東インド会社の設立から暴力論から組織論から哲学実存主義経済学様々調べて「なんでこういう社会になったんだ」「もっといい社会があるはずだ」と信じ抜いてその生き方を貫こうとしていた僕が「やっぱり雇わないと社会回せないじゃないかお前も所詮この資本主義における一匹の犬なんだよ」と神々に嘲笑われることがとてつもなく苦痛なのです。

「あなたが間違っている。やはり社会をより良くするには、素直で従順な組織の歯車になるべき生き方を尊重し、その方々をうまく活かす社会を作りあげるのが良いのです。大事な人たちを幸せにするためにも、組織の長として大きな経済を回しなさい」と神々が、昔からの知見深い方々が、人生の先輩方が嗤おうとも。

僕は絶対にこの生き方をやめない、と思いたい。
僕は自分の過去を否定したくない。
法人化なんてしたくない。したくないのだけれども。

同時に、自分を必要としてくれている方々を、悲しませたくもない。
本気で、分身したい。僕と僕と僕だけで、僕を必要としてくれる方々を幸せにしたい。
自分が倒れても、もう一人「コピーですら無い、明確な『個』として同じ存在である『僕』」がもう一人リカバーできるようにしておきたい。
それは、他者じゃ、ダメなんだ。他者には、その人の人生があって、それを尊重してあげたいんだ。

そしてもう一つ。
稼ぐことは、僕にはそこまで重要じゃないんだ。
稼ぐこと、収益を上げることよりも、僕にとっては「自分の意見を世間に叩きつける」ことの方が圧倒的に重要なのだから。
収益が自動的に上がり続けるシステムを考える暇があったら、拡声器を持って叫んでいたいんだ。
だからこそ、人を雇い、その人の雇用を守り続ける責任も背負えない、やっかいな一匹ものなんだ。

オーウェルの1984が、時計じかけのオレンジが、蝿の王が、頭から離れない。

このブログも20年続けています。

今になって気がついた。
僕のブログ「RoyalScam」は、去年の12月26日を超えて、
丸20年続くブログとなりました。皆さまありがとう。おめでとう。ありがとう。

たかがブログ。されどブログ。一度も名称変更せぬまま、テキストサイトと呼ばれている時代から、ずっとずっとずっと書き溜め続けた僕の言葉群が最も多い場所は確実にここになります。
ソーシャルメディアは各あれど、僕はこのブログの場所を決して手放さずにずっと進んでまいりました。これからもずっとこのまま進んでまいります。

というわけで、ブログ「www.royalscam.jp」これからも宜しくお願い致します。
基本は僕語りです。

にしても
学校>僕語り
ポッドキャスト>僕語り
FM市川>僕語り
オペラ>配役内で僕語り
記事執筆>僕語り

と、そんじょそこらどこでも自分のことばかり語って生きてます。いつ枯渇するんだろうこの妄想人格肥大は。

僕の会社組織に対するルサンチマンは深い。会社組織よ震えて眠れ。

(引用)
その際、未だ多くの教育者はこのような判断をするのです。「高速道路をこれだけ速く走れるなら、道路渋滞や砂利道だって努力すれば必ず走れるようになる」と。
(引用終わり)

ああそうだよ。ずっと言われ続けてきたさ。
「あれができるのにどうしてこれができないんだ」
「あれだけ映像が作れるのに、みんなができる事務がどうしてできないんだ」
「サボってるだけに過ぎない」
「甘えてるんだ」
「他の人にできることができないなんて言い訳に過ぎない」

小学生の頃からサラリーマンのラストまで40年近く、それこそ地層のように深く深く深く僕の中でルサンチマンとして積み重なっている。社会に対する相当な「恨み」として蓄積されている。この怨念が、今の僕にものづくり&社会へのアウトプットパワーを与える源泉の一つだ。

自分自身はいい。もう自分だけの舗道を手に入れたし「目線を合わせて」「他の人と足並みを揃えろ」「ちゃんとしなさい」「真面目にやりなさい」と指摘する人間の声はもう聞こえないことにしている。
聞こえたところで、お互い傷つくだけで何も事態は好転しないからだ。

次は、同様に困っている方々をちゃんと救っていきたい。

——
僕は、友人のこの言葉に、相当救われたのです。
「山本さんを常識人として扱う方がおかしいなんて、最初からわかってるじゃないですか」

特別扱いしろと言ってるわけじゃない。自分の常識範囲内だけで人のことを判断しないでほしい、尊厳ある対応をしてほしい、と、ただそれだけなんだ。

https://jp.quora.com/nippon-kokunai-niokeru-seishin-shikkan-no-saidai-no-genin-ha-nande-suka/answers/195682850?ch=1&share=87113b00&srid=joT6I&fbclid=IwAR1LgE43Ppj1DY60qUin21zqLzXJCJ5NkVZwOmQksRaebrQbRhTPWbCdce8

今日も卒業式

昨日は監督。今日は先生。一昨日は審査員。
肩書きだけ並べると、お偉方、権威のようである。

違う。全く違う。僕はそういうものからなるべく距離を置いて生きてきたのだ。

なりたかったものは「作家」だ。そしてそこに読者は要らない。僕が書いてさえいれば成り立つ業に就きたかったのだ。取引なんてしたくなかったのだ。もっというと「生業(なにわい)」には就けども、職業になんて就きたくなかったのだ。

ところがこのお偉御託な職業どもは、どれ一つとして自分一つで完結しない。それでいて権威をかさにきてしまうような臭みを持つ。僕のやりたかったことは、これらの臭みに唾を吐きかけることじゃなかったのか。

どうしてこうなった。なぜこうなった。

そんな中、今日は総勢50人を超える卒業式。過去最大。1年で8回の卒業式があるので、このまま行けば年間のべ400人以上を輩出する学校となった。
みんなに愛されて、可愛がってもらって、最後に式辞を読ませてもらって。
これでいいのか。こんなのでいいのか。本当に「僕は生きててすみません」な、真っ当じゃないゴロツキだぞ。人として。

それをわかってなお、5年以上続く学校BYNDが拡大を続けていることに、僕は喜びを禁じ得ません。
まだまだ、僕は頑張ります。背中を晒します。倒れたら踏んづけて行ってくださいませ。