お祭りで全てのエネルギーを入れ替えた翌週は、卒業式でまた全ての感情を入れ替える。
昨日は映像の学校BYNDの卒業式「ワークスプレビュー」だった。
BYNDを詳しく知らない方には「一年に何回卒業式やってるんですか?」と言われるであろう。答えから言おう。8回だ。年に8回だ。ほぼ1ヶ月半に一回卒業式をやっている。なんといってもそれだけ受講生がいて毎回盛り上がっているからな。リアルタイムの対面授業にこだわり続けるこの学校、リモート主体な社会においても、意外と?人気あるんだぞ。繁盛してるんだぞ。
毎週対面授業を行い、ロケ弁までご用意しておいて、卒業式だけライブ配信という「訳のわからなさ」が魅力だ。まあ配信後に集まって飲んでるんだけどな。
僕は今回3つの講座を受け持たせていただいた。実写撮影・編集のメインクラス、音と色の専門クラス、モーションデザインの専門クラス。
間にお祭りがあり、代講をお願いした先生方もおりますが(ありがとうございます)、無事この日を迎えられたことを本当に嬉しく思います。

いつも思っていること。
僕は常に「その人にしか見えていない世界」を共有してほしい。喜ばせてほしい。
人は皆違う人生を歩み、違う視点を持つ。同じ景色を見ても、違う感想を抱く。アウトプットする言葉も異なる。
視座を広げることは、優しさにつながる。相手の立場を理解し、共感することができる。
二十世紀までは言葉と、絵画と、写真と、音楽と、演劇あたりが「視座」の共有、コミュニケーションのツールだったが、より高密度なメディアとして映像が一般人の手の届くところにやってきた。
であれば。
お金を稼ぐとか、YouTuberになる、といった目先の目的ではなく。(それもあっていいんだけど)
お互いの視座の共有、優しさの発露、コミュニケーションの手法に、一つ映像を加えることで、自分の人生が、あなたの人生が、より色鮮やかになるのではないか。と僕は思う。
そして、言葉には文法、音楽には楽典、絵画には筆遣いがあるように。
映像にも、コミュニケーションを取りやすくするためのマナーやルールが存在する。時にルール違反をすることも大事だけれども、やはり綺麗な言葉遣い、綺麗な姿勢で生きている人に説得力があるように、綺麗な映像を作れる人の方が、コミュニケーションは円滑になる。円滑になれば、豊富になる。嫋やかに、艶やかになる。
僕は本を読むのが好きだ。なぜならば、その時代、その環境に生きた方の思想や感情を共感することができる故。ピラミッドを作った人、将棋打ち、架空のヒーロー、様々な物語を経験する中で、自分の世界を広げてきた。
僕は今でも「言葉の人間」を自称しているが、その立脚点の上に「音・光・色・艶・香・触」といった「非言語」の分野を用いて、コミュニケーションをとることができれば。
僕は何十人、何百人分の人生を体感することができる。それはもう、不老不死と言っても過言ではないのじゃなかろうか。「100万回生きた猫」や「孔子」ではないが、人生経験を豊富にすることで、他者に対して手を差し伸べられる機会が増えるのではないか。
…
生きている限り、人の役に立つことは責務だと思っている。僕らは、他者と共に暮らしているし、先人たちの知恵のおかげで道があり、信号機があり、電灯があり、スマホがある。
享受するだけで生きてもいいのかもしれないけど…なんというか、先人の努力の上にあぐらかいて生きてると、その、ちょっとご先祖様たちに「かっこ悪いな」「ダサいな」と思ってしまう感覚があるのです。やっぱり格好良く生きたいし、子孫(おらんけど)からも「かっこいい大人ありがとう」って言われたいのです。
なんの才能も努力する気力もなく寝て暮らしたい僕としては(既にカッコよくないではないか)、せめて視座、視点くらい広げて、優しさを持った人間でいたいと思うものだ。
話が逸れた。
卒業式だ。ワークスプレビューだ。
僕が受講生のみんなにできたことはなんだろう…。何もできてないかもしれない。
単に「情報量多めに生きてるおじさん」「楽しそうに生きてるおじさん」なだけかもしれない。
いや、それでいいんだ。
嫋やかに、艶やかに。匂い立つような清涼感を持って。
「生きることは楽しいんだよ」「君の人生、君の見ている視点も素晴らしいよ」とお互いに言えること。言い合える仲間を持つこと。様々な手段で、お互いに触れ合えること。
僕はただ「そういうことを考えて生きるのが好きなおじさん」なだけだ。
そういう人がいるよ、ということが伝われば、それでいい。
みんな、卒業おめでとう。
そして、こちらの世界へようこそ。
僕は皆さんのおかげで「たくさんの世界に触れられる」「寂しくない」人生を歩んでいる。
感謝以外に、何があるというのか。
