エイプリルフール2024

エイプリルフールの戯言だ。すなわち全部嘘だ。

そして写真にも関係性はない。

そして「自我において、言葉にしてはいけない」と思っている部分。後ほど消してしまうかもしれない。

ここ10年、ずっと仕事に追われてきた。

この「仕事に追われる」という感覚は、勤め人の時とは大きく異なる。

「与えられる仕事を続ける」「周りの人と調和する」のではなく

「何か次のニーズを見つけ出さないと、今日と同じことをしていたら来月飯が食えなくなる」

「嫌いな人とはさっさと縁を切って大事にしたい人のために時間を割く」

「無駄な作業はさっさと辞めて違うことを始める」

「何がうまくいくかは自分の『嗅覚』を信じるしかないし、それが間違ってても怒られない代わりに誰も責任は取ってくれないので自分でやる」

という精神的な追い詰められ方と開き直りを併存させる精神生活を10年送ってきた。

このメンタリティにおける日々、様々なものを犠牲にしてきた。

自分のPCの中に、ほぼ10年間開いてこなかったフォルダがある。

「10_novel」という名前のフォルダ。

PCのフォルダはそれぞれ連番をつけ、01が仕事、02が経理、03がBYND、04がPhoto、等々、自分に必要な役割に応じてファイルの整理整頓を行なってきた。

その10番目に、PCのリストアごとにコピーをしながら、ほとんど開くことのなかったフォルダ。むしろ開くことを拒んでいたフォルダ。

僕は文章を書きたかったんだ。物語を紡ぎたかったんだ。

そして、ちゃんと物語を書いていたんだ。

フォルダを開くと、中には僕の言葉がたくさん詰まっていた。

それらはほぼ2014年までに書かれたものばかり。

なんだ。たくさん書いていたんじゃないか。

自分の中では、2~3作品しか完成させていないつもりだったが、改めて見るとプロットだけでも50を超え、仕上がった作品も多かった。もちろん時代性を鑑みると、再読してそのまま使えるものは少ないのだけれど。

この10年、自分が望んだ形とは異なる姿で、自己実現を重ねてきた。

仕事に追われる中で、社会からの承認欲求はいつしか満たされて、筆が遠ざかっていた。

気がつくと、自分の夢は「もう、いいかな」「いつ死んでも構わない」と思うところに達していた。

だけど、改めて。

自分の小説群、文章群が「ちょっと待ってくれよ」と声をかけている。

これらを仕上げていかないと、いけないじゃないか。

良い文章もたくさんあるじゃないか。自画自賛。

彼らがかわいそうじゃないか。

もちろん、自分の若き日の承認欲求から出てきたエゴは、これから盆栽のように切り落としながら整えなければならないけれども。

書くのだ。書かないといけないのだ。

僕は書く人なのだ。

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